雨のニューヨーク

先日観た「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」には、ほぼ金持ちしか出てこない。アリゾナの田舎娘は最初は可愛くチヤホヤされるが、しまいには半裸にされて酷い目に会って、最後は主人公からも捨てられる。登場人物としては完全に悪意の餌食な感じ。金持ちでボンボンの主人公が、田舎娘を捨てて、五番街に住んでる金持ちの姉妹の今度は妹の方と付き合う話である。主人公と妹のやり取りで妹が口にするアリゾナ罵倒芸がかなり辛辣(だが面白い)。主人公はいかにも都会的で洗練されてるというわけでもなくて、頭でっかちで思い込みが強くて観念的に理屈を捏ねるようないつものタイプのキャラクターである。いかにもな感じでチェット・ベイカー風にピアノを弾き語る。今更ベタ過ぎてかすかに困惑する。田舎娘の代わりに娼婦を連れて実家のパーティーに行ったら、主人公の母親はその女が娼婦だということを見抜く。そして、私もかつては娼婦だったのだと息子に自分の出自を明かす。それを聞いた主人公は母親を見直す。隠されていた傷の発見と共有を経て結束が固くなるのと同時に、富裕族とはいえ純潔血統の歴史が続いてるわけではないことが示される。登場人物として、著名な映画監督や脚本家や俳優も出てくるけど、アリゾナ娘を喜ばせ上気させるための人たちで、この人達もアリゾナ娘同様、作品内では侮蔑的な扱いでないがしろにされてる感はある。舞台となるマンハッタンには始終雨が降ってはいる。やたらと降っている。どうにも腑に落ちない、奇妙な話で、妙な後味で、でも辛辣さとか苦みとかのテイストではなくて、ふつうにコメディーで、しかし客観性や汎用性に対する配慮が薄いというか、作り手個人の好悪の感情が、これまで以上に色濃く混ざりこんでいるいうか。いや、そんな感情に、これまで何度も使い回してきたことのトレース感が浮き出てしまっているのか。そんな不思議な感触が自分は気になったのか。