インポッシブル

桜がついに咲き始めたようで、思わず早いなと呟いてしまう。早咲きのサトザクラは満開のピークをすでに過ぎて、集まってきたメジロたちが身体ごとぶつかって枝を揺らすので花の落下をさらに加速させる。今日はこのあと雨も降り風もさらに強まると天気予報が言っていたけれども、見る限り空は快晴で風はあっても雨の気配は感じられない。まあ降ったら降ったで良いやと、本を返すために図書館を経由しつつ京浜東北線で「インポッシブル・アーキテクチャーもうひとつの建築史」展開催中の北浦和埼玉県立近代美術館へ。いつものことながら建築系の展覧会というのは観に来る観客が実に熱心な人たちばかりなようだし若い人が多いし外見もオシャレな、如何にもアートやクリエイティブ周辺に生きている人々な雰囲気が、少なくとも絵画の展示に集まる人々よりは濃厚に漂う気がする。しかも、それで会場はかなり混んでいて、埼玉のこの美術館でチケット買うのに五分くらい並ぶのだからすごい。展示内容は面白さと捉えがたさの両方を感じるもので、とくに実現しなかった建築をCGで実現したかのように見せる映像というのは、これはどう捉えたらいいのだろうという思いは感じた。実現したかもしれない世界に思いを馳せるのだとして、それは建築への思いなのか風景への思いなのかが自分でよくわからなくなるようなところがあった。

キレイ過ぎでもあるけどプレゼン方法としてすごく気が効いてていいなと思ったのは石上純也の作品。色々な意味でいちばんインパクトを感じたのは、ザハ・ハディドの先頃キャンセルで話題になった新国立競技場のプランだった。建築の世界とか業界のこととかまったく知らないのだけれども、なるほどこれほど巨額で大掛かりな大プロジェクトになると、単純に紙モノの資料類だけでもこれほどたくさんの量になるかと驚くような、広辞苑みたいな分厚いドキュメントのファイルが十何冊だか並んでいる。ふだん自分が仕事してる世界が如何に小さいか(受注価格で比較するのが無意味なほど)というのを今更のように思い知るが、かつこれらが最終的にはすべて白紙撤回されたというのが、もうむしろ爽快というか清清しいような気持ちになるというか、こういうのに関わってしまったビジネスマンというのは、アイデンティティとしての「俺の歴史」に、トラウマの如く心の深くに刻まれてしまうのではないかとか何とか…。いや、そんなナイーブな人なんか、今どきいないのかもしれないけど。僕の想像よりも何十倍もハードで愛なき世界を颯爽とサバイブしているのが、この国の一流のエンジニアでありテクノクラートなのかもしれないけど…。とにかくまあ、壮大な無駄金と無駄時間の錚々たる見えない廃墟感、つわものどもの夢の跡で、他のCG映像なんかよりもよほど遥かな果てしない気分にさせられた。

常設会場では瑛九の特集展示で、じつは自分は、瑛九に対してこれまでやや苦手意識をもっていたのだが、今回いくつかの作品を観たら瑛九ぜんぜん面白いじゃん、とてもいい画家じゃんと思った。大作もさることながら戦中に描かれたなんてことない感じの小品とか、じつに良かった。

結局、最後まで雨は降らずの一日であった。