未熟な感想

FさんとMさんの対話の様子をFさんのブログで読んでいて、そうなの、たしかに僕は「亜人」についてここには何も書いてないのよなあと、今更のように思う。もう一度読み返してきちんと何か書くべきでないかと思うので、はい、かしこまりました、今しばらくお待ち下さい!…などと思った、が、いや、しかし何かを読んでその感想を書くというのは、なかなか只ならぬパワーを使うものでしてね…などと、言い訳めいた何事かをつけ加えたくなるところもある。

「完璧な読書家」「完璧な同感者」(…乗代雄介)であることは果たして可能か?わたしにその資格はあるか?多少自覚的に本を読んでいる者なら概ね誰もが考えること、書き手が作品を書きながら思い浮かべている理想の読み手、それは完璧な読み手、それはこの私にこう書けと示すここよりほかの誰か。読み手は読む。その文字を読み、イメージを読み、その書き手について読む。読むという行為はそのときほとんど書くという行為と重なる。それはどちらも、無からなけなしの何かを引っ掻いて手繰り寄せるような行為に似る。読む。それは書かれた内容を理解すること、書かれた内容?それは書いた人が思ったこと?それは書いた人がこれを読んだ人の心の中に思い浮かんだことを想像したときのそれ?だとしたらそれを読んだ人は誰?私以外の誰か?書き手と私の共通のまだ見ぬ誰か、理想の誰か?私が読んで、書くあなたそのものになること、書くあなたを今ここにもう一度繰り返すこと。そうしてかつての過去を今ここにあられもなくあらわしてそれを生きてしまうこと。それは書くあなたも読むあなたも区別のつかない場に至ること。でいい?

でもそんなのは無理で、不可能だ。それは仕方のないこと。そんな青臭いこと今更何言ってるのか。スミスなんか聴いてる中年はこれだから厄介だ。

読むとき、ここに読者たる自分の、か弱い情けない個体がある、きちんと読みたい、けして間違えたくない、これを丸ごと受け止めて余すところなく味わいたいと思っている、その力量があると自分を信じている、現時点でも書き出せばかなりいけると思っている。しかし失敗の不安はもちろんある、緊張を感じている。ある程度積み上げて失敗したとき、やり直すのはやぶさかではないとしてもきちんと収集つくのか、最低でも自分に嘘のないものにできるのか、最悪の場合その作品に触れるべきではなかったと感じてしまう可能性をいっさい恐れずに一貫してふるまえるのか。

ことほどさように、作品について書くとはそれなりの大事業であると思っていて、もちろん普段の、たとえば歴史的な巨匠の作品が相手であれば、それなりに手を抜けるというのはある。巨匠という存在はほんとうにありがたいのだ。僕が手を抜いても僕が恥をかくだけですむ。巨匠について言及する言葉は世界にいくらでも高水準なものがあるのだから。でもそうでないものだと緊張感はまるで違う。

しかしあらかじめ何の拠り所もない作品に対して、何十年もひたすら遡上に乗せ続けているような人物も、この世には存在するのである。このことの凄み、そんな人の仕事の迫力というのを、いったいどれほどの人が実感として感じているのかと思う。もちろんそれを語るにおいて膨大な作品体験量・経験量の血肉化した分析演算処理が高速回転していて、それだけの脳内リソースを維持していること、その教養、知性の高さは誰にでも真似できるわけではないとしても、でも普通そんな本気の演算処理を、人は何度もやらないものだ。本気で作品に向かう人をこそ畏れよ。世間でクリエイティブとか何とか言ってるそれ風な有象無象などわざわいなるかな大抵は一部で使いまわせるテンプレをあてがってのルーティン処理でもっともらしく出力して形を整えただけで、それで生きているだけなのだ。しかし、そんな連中とは別に毎回「勝負」している人もいるのだ。それはある意味、棋士のようなものだ。芸術は勝ち負けじゃないよとか簡単に言う人はいるけど、このレベルで言ったら芸術なんて日々、ことあるごとに「勝ち負け」である。少なくとも、ことによると負けて命を失うかもしれない賭場に立つ気があるのかということである。

などとやや熱い思いで書いていると言葉がどんどん大げさになって、自分が自分自身を置いて行ってしまうのである。まあ、僕は我ながらわりと臆病だし逃げ腰なわけで、そのニュアンスが文体に醸し出てそれが独特に味わいなのでは?とも思うのだが、それでもできればなるべく、書くべき時は書きたいとの思いは肌着の下に大事な手紙を隠し持つ乙女のような可憐さで今後もできれば携えていたいと思うのであります。