イメージの中の自分は弱くない。現実としては弱るが、自己イメージ的には普通だ。普通に生きている。それとくらべて、他人は、身体が弱すぎる。自分は、自分の身体をいたわりたいが、他人の身体を酷使したい。いや、自分は、自分の身体なら、いたわられているところを容易に想像でき、他人の身体なら、酷使されているところを容易に想像できる。自分の身体が酷使されているのを想像する事もできるが、他人の身体がいたわられているところを想像するのは難しい。そういうこととは別に、僕は今まで基本的な姿勢として他人の身体をいたわってきたつもりだが、しかし、いたわりすぎたかもしれないと最近は思う。いたわりすぎることが、相手にとって善であり快であるとは、必ずしも言えないかもしれない。というより、相手にとってそれは別に価値あるギフトではない可能性が大いにある。ほとんどの人は、もっと私を酷使せよと無言で要求している。それが本来だ。食べるものを、私の口の中に放り込めと、要求し続けているし、それ以外のいたわりのようなものなら、とくに迷惑がる訳ではないが、でもことさら、それを喜ぶわけでもない。そもそも、それらすべて、自分の勝手な自己満足に過ぎなかったのかもしれない。もっと、この私を使え。これに応えられるか否か。人は、ああしろこうしろと、ひたすら要求するが、その願いが、ふいにかなうと、皆、なぜか妙に、ふいに不機嫌そうに黙り込むものだ。ただ黙って俯くものだ。