捌く

魚を三枚におろすのは、ちょうど一年前くらいからはじめて、日々熱心にとは行かないまでも、それなりに回数重ねては来たのだし、もうちょっと上達しないものかなとは思うものの、今でもどうにかそれなりにはやっている。上手に出来れば、気分がよく、いまいち不満の残る出来になると、予想以上に気がふさぐのだが、結果料理にして食したときの満足感は、その出来栄えとあまり関係がない。これは制作と名の付く行為のすべてのあてはまるのかもしれないけれど、作る自分とそれを食べる自分は同一ではなく、いずれにせよ自分でやったことの結果に、あたかも他人のように自分で驚いたり失望したりするというのが、結局はこうして生活していることの面白味の少なくない要素ではあるので、それはそれで良いのだと思う。ただなるべくシンプルに、余計に弄り回さないで仕上げるほうがすくなくとも最初のうちは良いようだ。満足にせよ不満足にせよ、たどった過程を思い返しやすいほうが良いのだ。反省は次の機会にそれをくりかえさないために行うとも言えるが、どうしてもそれを繰り返すしかない自分を発見することでもある。反省するというのは、自分をモデルにしたユーモアのある物語を自ら編み出して面白がってるようなことでもある。

ところで「丸」のままの四つ足動物と鳥類を、包丁で捌いたことはまだない。いつかやってみたいような気もするし、そこまでしなくてもいいかとも思う、が、どうしよう。そういうことを専門に教えてくれるお料理教室的なものも、世の中にはあるのだろう。魚にせよ肉にせよ、生き物の身に刃物をあてて、それを切るという感触が伝えてくる固有の何かはある。作業中に、刃物で誤って自分の指を切ったときの、あの感じをたえず想像しているところもある。触れ得る身体とそうではない部分との境目のところに触っているような思いでもある。