歩いていて、池の水面に突き出た石の上に亀が乗っていて、こちらに向かって首をぐっと突き出している。こちらを向いているなら、こちらを見ているのかと思って見返してみるが、こちらを見ているわけではない。単にこちらの方角に首を突き出しているだけだ。


亀がこの僕を見ているなら、僕も亀を見返すことができるかと思うが、それは無理そうだ。たまたまこちらを見ているように見えるだけで、じっさいは見ていないのだ。亀と僕。と言葉では書けるが、現実的にはそういうカップリングは成立しない。同じ次元にいないというか、たぶん認識の共有がない。。というか、亀も何かを見ているのかもしれないが、それを想像したこちらが、ぼやっと想像して期待したような何かを、亀は一切見ていない。それではべつの何かを見ているとか、いや、何も見ておらずぼーっとしているだけだとか、つまり亀が、いわばそういうことなのかというと、たぶんそれでもない。そうなのだ。まったく共通点なしだ。完全にゼロだ。お互いに、お互いの存在を認め合えないに等しい。たぶん、同じ空間にはいるが、同じ時間のなかにいないと思ったほうが正しい。


だから動物を食べても良いのだ、と唐突に思った。あの亀をもし僕が食べても、亀は僕に食べられたとは遂に思わない。同じ時間を共有していないからだ。鴨も、豚も、猪も、牛も、鹿も、皆そうやって、異なる時間に生きるなにものかによって食べられていく。もちろん人間の死もそうかもしれなくて、異なる時間のなか、べつの何かに食べられてしまう。


図書館に行く途中で、必ず千住新橋を渡るのだけど、橋の下から見る川沿いの野球場の、ピッチャーマウンドを中心にひろがった内野エリアの真っ白いいびつな丸い領域は、おそろしくきれいで、いつ見てもはっとするようなきれいで巨大な姿でそこにあって、もう何十回も見ているが、あれはもはや、自分の意識では地面というよりは何か小さな池というか、得体の知れない物質が溜まっている溜まりで、何かがたえず吸い込まれているかのような、そんなわけのわからないものに感じているのかもしれない。


そういえば今日、図書館で偶然目に止まって、「2003―飯野賢治対談集」というのをぱらぱらと見ていて、飯田和敏との対談だけ読んでいて、この対談自体は1998年に行われたそうで、来るべき未来-2003年-という、当時から少しだけの未来を、仮のテーマにすえて話す、みたいな感じらしくて、正直今読むと、ほとんど泣きたくなるような、まったく、なつかしいというか、ああ思ってたんと、違う、違った、何もかも違った、という感じだ。僕は昔から、正直、ゲームというフォーマットにはほとんど興味持てなかったし、夢中にもなれなくて、どうなのかなと思っていたのだけど、でも当時クリエイターを自称していた人々のことはべつに嫌いではなかったし、というか「現代なんとか」は、どうしたってクリエイターを自称するところからしか始まらないし、少なくとも最初はそれがすべてだから、それでぐいぐいやるべきなのだが、まあでも結局、そういう意味での作家性なんてそれ自体つまんなくて、なんだかなあ、みたいな。飯野賢治も既にもう、この世にいないし。まったく、いやになっちゃう。


男はつらいよ 寅次郎紅の花」1995年。シリーズ最終作である。寅さんはしばらくつづけて観ていたけど、完全に飽きてしまって、もう他を見る気があまり無くて、とくに渥美清晩年の作品群になると、ひたすら陰鬱で気が滅入るような感じが濃厚なので、とくに最終作だなんて、わざわざそんなのを観るなんてちょっと嫌だなー、と思っていたのだが、家でテレビの前にいてチャンネルを変えたら、ちょうどやってるもんだから、ついそのまま観てしまったのだが。そうしたら、これが意外となかなか良くて、さすがに最後の作品っていうのは、何かちょっと違うなと思った。最後だと自覚して、その自意識でまとめていたら面白くないだろうが、予測のつかぬ最後に緊張しながら、すべての人がいつもと同じことをしている偽の平穏さみたいなものが全編を覆っている逆の不吉さとでもいいたいようなものがあり、それはそれでけっこう見応えがあった。


全編にわたり、ほとんど吉岡秀隆のエピソードしかでてこず、寅さんは脇役に近いというか、スペシャルゲストみたいな感じだが、中ほどの渥美清浅丘ルリ子吉岡秀隆の三人が会話するシーンからしばらくのあいだが、たいへん素晴らしく観ていて緊張する。強烈なモンタージュ。ほとんど小津みたいだ。これほどばらばらのつぎはぎで、各人が必死になって映画を成立させているなんて、ちょっと他にないような感じである。ほとんど誰もが、演技とか芝居というものをしていないようにさえ、感じられる。緊張感、といえばそうかもしれないけれど、そういう言葉も適切ではない、とにかく渥美清が出演しているシーンすべてが、何か謎な、とても不思議な感触をたたえている。この凡庸な物語を、さらに薄く包むもうひとつの何かがあるようで、人情系映画のある意味行き止まりにあるような、もうこれ以上の人情映画はございません的な、ベタな演歌的空気の果ての舞台袖の埃の舞う荒んだ感触さえ感じられる。


それと、あと浅丘ルリ子。本作での浅丘ルリ子を素晴らしいと言わなければ何も観てないことになってしまう。もちろん寅次郎と旧友であり旧作のヒロインを演じているという履歴もあるが、それ以上に色々総じて相手をわかっていて過去の諸々をわかっていて、という、その手の、女の、如何にもな、独特なムードを、醸し出していて、たいへん素晴らしいですね。…いや、常に化粧濃いなあ、とも思うけど、でもそれでもこれは、そのように賞賛しないわけにはいかない。


そういえば「すいか」というテレビドラマが、たしか2003年にあって、本作からはまだすいずん年月を経ることになるが、それでもこのときの浅丘ルリ子と、「すいか」浅丘ルリ子は、もしかしたら同一人物ではないのだろうか。たしか「すいか」浅丘ルリ子は大学教授だけど、しかしもしかしたら、このときだけは素性を隠して沖縄に隠遁していたのではないのか。