格闘技を観る(1)

もう先々週のことになるけど、「MOT'Sターミネーター2014 VOL.1」というのを、妻と二人で観に行った。「総合格闘技」のアマチュア格闘家ばかり十何組が試合をする催し。


新橋駅から乗ったゆりかもめ線は混んでいて、乗客のほとんど全員が遊びに行く若い人たちで騒々しい車内にいるだけで、着く前からどろっと疲れたような気分になった。でもすぐにどこかの駅でさーっとほぼ全員降りてしまって、ガラ空きの車内になった。座って窓の外のお台場の超・人工的な湾岸の景色が流れていくのを、ゆりかもめ線の路線から東京タワーや見たことのあるビルが見えたりすると方向としては海の上から東京を見ているのと同じだなと思ったりしながら、ぼーっと見ていた


その後三十分近く掛かって到着した有明の何とかいう駅は無人駅で出口に降り立つと砂漠みたいな殺風景さで埋立の空き地が広がっている。ぐるりと見渡して、数百メートル先に目指す会場の建物が建っているのをすぐに発見した。会場は巨大なプレハブ施設みたいな安普請な感じの建物だが、プロレスや格闘技などの興行を行う場所としては有名らしい。


ちなみに僕がこういう興行に足を運んだのは今回がはじめてで、総合格闘技とか言われても意味がわからないというレベルの人間である。妻も同じかそれ以下である。僕と妻が、二人並んで総合格闘技を観戦している図は、知人が見たらたぶん笑いをうながされるに違いない。


しかし何日か前にも書いたように、友人Yが選手として出場するから仕方がないのだ。だから来たのはウチら夫婦だけじゃなくて、地元の友人たち(F夫妻、W、選手Yの奥さん)もで、会場で皆がいて、久しぶりの再会みたいな感じになった。Wとは去年の年末にあったけど、Fとは4、5年ぶり。奥さんとは10年ぶりくらいだ。選手Yの奥さんとも10年ぶりくらい。でも思ったよりも皆、あまり変わってなかった。あんまり変わってないじゃん、とか、そういうやり取りをして、ただ僕としてはなんとなく上の空の気分でいて、懐かしいとか久しぶりという気持ちもどこか落ち着かない気分の中で感じているだけで、その原因はたぶん単純に場所がここだからで、いったいこれからどんなモノを見させられるのかという、ぼやっとした不安と緊張の影響によるものであった。


これから観るものがどんな内容なのか、さっぱりわからないというのは、当然落ち着かないもので、なおかつそれが、スポーツなのかケンカなのか、なんだかよくわからないような、格闘技と呼ばれている人間同士の勝敗ゲーム、肉体の打ち合いによる勝負だということで、要するに、何かキモイものとかグロイものを見させられる可能性があるのか無いのか、そのあたりが気になって落ち着かないのである。


キモイ、グロイ、つまり人間の社会が通常は隠したり排除して制御していそうなものが、何かのはずみでふいにちょっとはみ出したり漏れたりするような事態というか、ほんのちょっとしたものだとしても、この手の催しは如何にもそういう感じのことが起きそうで、集まってる連中も如何にもそういうことが好きそうというか、そういうラインのぎりぎりをあえて狙うことに自己満足を感じるような特殊な連中ばかりなのではないかという、まあけっこう偏見的な考えに囚われていたのだ。


要するに、格闘技なんて全然観たいと思ってなくて、見たいモティベーション0%で、かなりネガティブな気分を抱えてその会場にいた。陰惨で、血なまぐさい、頭の悪い若者の自己顕示欲と見栄と虚栄心ばかりの、しょうもない小競り合いをずっと見続ける趣味はないし、場合によっては、会場を出てしまおう、他の友人たちとは後でまた落ち合えばいいし、友人が選手として出場する試合は、たしか8試合目なので、仕方がないからそのときだけは一番遠いところからとりあえず見ておくだけでもよかろうと思っていた。


…で、すべて見終わって、すでに二週間くらい経ったが、これを書いてる今思うこととしては、ああいう、はじめて見るようなものを見ているときは、人間というのは、とりあえず、その感じをあらわそうとして言葉を探すものなんだな、ということだ。


つまり、目の前の出来ごとを、自分のなかに上手く位置づけるための言葉をだ。ここで書いてるのはその、とりあえずの記録ということになるのか。でも、こんなにたくさん字を書いたのも久しぶりだ。それだけ書きたいと思うだけの刺激を受けたという事は言える。


それと、ルールは凄い、ルールは偉大である、と思った。こういうルールが浸透して、人間の世界に広がったというのは凄いことだ。


格闘技は、暴力ではないが、ルールがなくなったら、暴力そのものになる。でも僕はまだ、暴力そのものが現実として目の前にあらわれるところを、今まで一度も見たことが無いと思った。暴力とは、そう簡単には、あらわれないものだ。でももしあらわれたら、それを俯瞰するように見ることはきっとできない。この私が、その射程に入るか入らないかの問題になる。だからそれはきっと、経験とか体験ではなくなる。もし戦地から生還したというとき、それは結果かもしれないが、経験と言えるのだろうか。戦争経験者が、そういう話を話しにくいと感じるのは、もしかするとそれが自分の経験ではなくて単なる結果を話すだけに過ぎないのだと、自分で感じてしまうからではなかろうか。サイコロの目が1か6か、どちらかが出た。その瞬間は、人に伝えられるような経験なのか。そのときのそれは、もし仮にそれが経験なのだとしても、それは何か荒々しく禍々しい、不定型な、どろどろとした悪い予感のような、緊張と不安と恐怖の感触以外に、何かがあるのだろうか。


しかしそのようなことではなく、僕が前に見たことを思いだしながらここに書いているのは、なぜなら見たものは、何か荒々しくも不定形で掴みどころのないような何かが、ある種の規則、ルールに基づいて制御された形であらわれていた、あるいは、その何かが、とても薄いが強靭な皮の袋に包まれているような感じであらわれていたと言っても良いかもしれないが、とにかくそのようなものに思われたからだ。それがあるから、こうして言葉を探しながら書こうという意欲がわいてくる。


長くなるので本日はここまで。