けっこう前だが、将棋の戦後史上最年長の41歳でプロ棋士になった今泉健司さんのニュースをテレビで見ていたとき、今泉さんが車の中で詰め将棋の本をめくっているシーンがあって、けっこうなスピードで捲り続けるので、取材者が、それは何をしてるんですか?と聞くと、今泉さんが、ええと、一応全部解いてるんですけどね。と答えていて驚いた。というか、なるほど、つまりそういうことなのか、と思った。盤を見て、駒の配置を見て、ああすると、こうなる、次にこうすると、ああなる、みたいに想像して、頭の中で想定できるパターンを全部検討して、正解はこれと導き出す、というのが、僕のような素人の詰め将棋の解き方だろうと思うが、プロ棋士レベルだとおそらく詰め将棋そのもののパターンしか見ていないのではないかと思う。目の前の問題を解くというより、目の前の問題が過去のどのカテゴリに位置するどのような経緯で発生した系統に属するかをざっと検索して、ヒットした件と付き合せて、なら正解はこれ、とやってるだけなのだろう。おそらく対局でも、この局面はこれ、この局面はこれと、次々と過去のパターンがあらわれては消える。それを如何に正しく取捨できるか。要するに、コンピューターに例えていえば、ほとんど演算処理はしてない。CPUはほとんど使ってなくて、だからすごく省エネルギーで、しかし索引機能だけは異常に高性能になっているのだ。高速かつ的確に条件を与えて限りなく正解に近い結果を抽出するというか、今更実感したのだけど、コンピューターの力って結局は、演算処理のパワーではないのだ。人間の頭のよさというのも、結局はそういう力に秀でているかどうか、ということなのだろう。というか、そういう力に秀でていることが、この世界では頭がいいということに該当するのだ。


などということを考えたのは、新潮11月号に載っている高橋弘希「指の骨」という小説を読んだから。この作品もまさに、前述のような思考様式に則って作り上げられたものではないかと思った。小説そのものに対して、とてつもなく凄い、何かが揺さぶられるような作品だ、と思ったかというと、そういうわけではないのだが、しかしとりあえずは「これすごいねー!」と、周りに言いたくなるようなものだ。とにかくこの世には、すごく頭のいい人がいるものだと思った。