昔から読んでいたブログが認証制になったということで、メールを出して閲覧許可をお願いして、今日その返事をいただいた。ちょうど会社の午前中のバタバタしていたときで、ばたばたしてるし周囲はもたもたしてるし、いいかげんイラついてたときで、いいや、コンビニで水でも買ってくるかと思ってエレベーターで下のフロアまで降りる途中、iPhoneでメールをチェックしていたらそれに気付いて、エレベーターを降りてその場にじーっと立ち尽くして、いただいた返信を最初から最後まで読んだ。先方も自分のこのブログのことを知っていてくれていて、ほんとうにありがたいような、自分には勿体ないような言葉がたくさん書いてあって、読み終わってとりあえずiPhoneをポケットに閉まってコンビニで水を買って、またエレベーターホールへ戻りながら、バカなことに、なんか上空から、たくさんの光が自分に向かってまっすぐに降りてきているような感じになって、これは何なの、と思った。オフィスのフロアに戻ったら、さっきと変わらぬ情景が広がっているのに、もはやすべてが、視界があるいは自分の網膜、そのどちらかが漂白された後の世界になってしまった。しかしこれはいったい、何という喜びなのか。相手に対する深い感謝の気持ちを感じながらも、しかしこの喜びは、いったい何かと思う。なにを俺は、喜ばしいと思っているのかと。この何か、たくさんの光の穴が、上空に空いたような、万全な喜びの気持ちに説明がつかない。なにしろ、こうして何かを書いていることは、いったい誰にもどこにも届かないはずの、まったくよるべなき、無為で無意味なくりかえしに過ぎないのに、にもかかわらず、それがこの真っ白な何も見えないような、よくわからない空白の先の、得体の知れぬ何やらの、それが何なのかはわからないが、どうもそれが自分を含めた、何か束のような、太い方向性のようなものの一つに自分も含まれるらしいということが、だとすればそのままで嬉しいのだという、ほとんど理不尽で不条理な、この感情の根拠は何なのでしょうね?なぜこれほどまでに、何の確証もなく何の担保もないにも関わらず、いや、だからむしろなのか、なぜこれほど無償的で受容的な、まるで神様のご加護のような一方的な慈愛を感じるのか。壁の向こうに人の息づかいが感じられたとか、砂漠を彷徨って何日かぶりに他人の汗の匂いを嗅いだとか、そういう類の確からしさ、いわば認識の一番最初の部分にまつわるところだからなのだろうか。ありがとうございます。