Bennie Wallace「Live At The Public Theatre」


朝っぱらからデカイ音で聴く。1曲目Broadsideのテナーの音が目が覚めるような素晴らしさ。この良さは一体なんなのか考えていた。ジャズ(一般)なんてつまんねーと思うことも多いが、こういう、何かの剥き出しなモノの現前に出くわすと、毎回飽きもせずに、子供のようにおどろいている自分がいる。


驚きはたぶん、この音そのものの。テナーという楽器そのものの剥き出し感だろうか。しかしアイラーとか、コルトレーンとか、マレイとか、誰でもいいけど、テナーをゴリゴリ言わせた、テナーという楽器そのものの限界を露呈せしめるかのような演奏をしたプレイヤーは数多い。だからそれ自体は別にいまさら驚くにあたらない。では何に驚いているのかといえば、おそらくその増幅および録音結果としての音質にではないか。


おそらく、これぞディストーションサウンドであり、いわゆるエレクトリック・ギターのエフェクト効果によるそれとは違った意味での、増幅された音を録音するという行為によっていくつかの要素を削ぎ落とされてしまった結果としての音ということだ。


歪んだ音を、なぜある種の表現結果のように感じるのだろうか。澄んだ音の波形は高域から低中域までスムーズな曲線をなすが、歪んだ音は音の波形の頂点が天井に当たって、抜けの悪い、単調で一辺倒で、空間を感じさせない、一色で塗り込められた塊のような印象の音になる。一部が根こそぎ拭き取られてしまった後の空虚と、残された箇所の根本的不整合の放置とがあらためて混ざり合ったような。澄んだ濁り、とか言ってしまうと簡単過ぎる気もするが。とにかくそのような、この感じ、いったいどう書き表せばいいのか。書き表すことができるのか。そんなことしてても無駄なのか。