五人で


東京駅丸の内北口改札前に集合した五人で、まず三菱一号館美術館「画鬼・暁斎 KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」を観て、そのあと初台に移動して東京オペラシティ アートギャラリー「鈴木理策写真展 意識の流れ」を観る。


この五人は、先月フジロックに行ったメンバーであり、たまに開く飲み会メンバーであり、年に一度か二度、多いと三度くらいやってる美術同行会のメンバーでもある。そして元々は皆、会社の同僚であったのだが、今となっては、これまでの経緯も集まる目的も今後の展望もまるで見えないというか、まるで意図のわからない、一緒にいる意味がほとんど感じられない、謎の五人組である。ここだけの話だが、別にことさら気が合うとか、一緒にいるとたのしいとか、そういうわけでもない、何度顔を合わせても、いつもたまたま集まった五人組にしか感じられないような微妙な宙吊り感の漂うような、しかしとにかく今となっては既にもう五年以上こうしてツルんでいるのだからやはり不思議と思うが、まあ、とりあえず別にどうでもいいか的な、本質的な意味での惰性感もあって、そういう惰性的なところをかかえた五人組というか、そういう点では共通性のある五人であるとはいえるかもしれない。というか、今思い当たるところを思い出しても、自分の交友関係には、そういう感じがたいへん多いかもしれない。


さて、自分は美術展覧会に出かけることはたまにあって、ここに感想を書いたりもするけど、基本的にはほぼ全ての展示を僕と妻との二人で出掛けて観ているわけだが、しかし館内を二人で一緒に歩きながら鑑賞するのではなく、観てるときはお互いばらばらに動き回って、単独行動で、それぞれみたいものを観ている。しかし今回の五人組の場合は、鑑賞優先ではなくて、友達同士で、を優先するので、必ずしも全作品一点一点を丁寧に観ているわけではない。


とはいえ、河鍋暁斎の展示はまあそれなりにじっくり観たし、展示物も多く見応えはあった。めっちゃ上手、とは思ったが、個人的にはほとんど面白いと思えなかった。


初台の鈴木理策展も、何も考えずに、風呂に入ってシャワー浴びるみたいにして、をオペラシティの巨大空間内で贅沢に展示された作品群をわーっと受け止めて視覚的に超快適。みたいな、そういう勝手な期待を込めて今回観に来たのだが、思ったよりもそうでもないというか、うーん、まあ、こんなもんかという感じ。むしろ、大変久しぶりに観ることになった寺田コレクション(「水につながる 寺田コレクションの水彩画」)が相変わらずの良さで、個人的にはこっちの方が良かった。難波田親子の作品点数がやたらと多かった。それと、project N の西村有の作品群が、まず「こういう絵を観るの、ものすごく久しぶり」と思って、そのあと「なんか、すごく良く思える」と思った。どの作品も自分はかなり気に入った。いわゆる、ヘナチョコ系っぽくもあり、そう見えてしまいがちではあるが、ちょっとみれば、相当高度な作品であることはわかる。葉っぱのシリーズよりも、大きめの画面の風景や人物のシリーズの方が良かった。大画面の、自動車の絵とか、じつに素晴らしい。本日最大の収穫と思った。


ちなみに僕以外の四人のうち二人が、西村有の作品に対してはほとんど「ショックがでか過ぎる」「現代美術わからなすぎる」の感想で、やはり観てきた流れとして、寺田コレクションの李禹煥や杉全直や堂本右美の水彩の「こんなの、私でも描けるって、どうしても思っちゃいますよね」「30秒で描けますよね」という感じの話になってしまい、大量の難波田親子の作品を黙って観たあとに、最後に西村有の「子供の絵みたいな」作品が並んでいると「これは、いくらなんでもおかしいでしょ。」「ここまで来て、最後の最後に、これか。」みたいな結論に、どうしてもなってしまったようである。


このあと、西新宿あたりをふらふら散歩して、そのあと一軒目で乾杯して、二軒目で焼肉大会で、けっこうしっかり飲んで帰宅。食事中に「現代美術わからなすぎる」「「こんなの、私でも描ける」「子供の絵みたいな」的な言葉に対して、なんらかの異論というか、それについて、たとえばこういう考え方もできないだろうか、みたいな話題を振ってみようかと、展示会場を出たときには考えていたのだが、もちろん上から目線的な「その考え方は間違っている、それはこう観るべき」的な話ではなく、っていうか、そんな説教、自分には出来ないし、そうじゃなくて、こういう面白さもあるかも、というような話を、できないかとも思って、まあ、この五人で、そういう話をしたことは何度もあるけど、いややっぱりあらためて無理。難しい、ぜったいに難しい。それは、こう観るべきだとか、こういう考え方だとか、そんな言い方しても、絶対に伝わらないと思って、もし伝えるとしたら、それはこの自分が、僕は面白かった、でも、そもそもなぜ僕が、それを面白いと感じるのか、それはなぜ僕がそれを面白いと感じるにいたったのかという過去の個人的歴史から語るみたいなことになるのかも、などと思い、だとしたらそれは今は絶対無理、というか、そんな話をするとしたら、それはその話自体がやっぱりつまらないとも思った。そして、いつものことだが、酒を飲み始めたら、結局そんな話題では、全然話さないし、話す気にもならないという。


でもまた近いうちに一緒に行ったら、また別の違うことを言い出したりもするのだから、それはそれでいいのだ。それに、別に皆が皆、何かをみて異口同音に面白いとか思う必要もないのだ。でも、同じものを二回、三回と観て、その都度、違う感想が出てくることって、ものすごく大切なことだなとは思う。もし、それを出来ないというなら、それはけっこう深刻なことではないか。飲んでるとき、そんな類のことだけでも、ちょっと話せば良かったなあ、と、今これを書いてて思った。