負荷非分散

分散作業にできる頑丈なパズルとしてのエンタメと、それに比べ色んな意味で不安定な実験的純文学の話から繋げると、それぞれのやってることがぜんぜん違うのに、実際は市場性という単一基準で判断されざるを得ない。
「特殊な環境で実験して初めてできました。」という、不安定でほとんどユーザー数が期待できない「フィクション」的なものと、「それをあらゆる環境でテストし尽して安定動作するスマホにしてみました」という攻撃に強い「現実」的なものは、一時的には分かれるしかない。でも、実験を元にできあがった大量販売されたものから、報酬まで含めて原点である「フィクション」に遡る制度がほしい。それなら分業が効くかもしれないし、そういう仕組みが全くないから、元気がなくみえてるだけなのかもしれない。基礎研究なのになぜか評価基準は長期のインパクトじゃなくて短期の市場性、みたいな制度がいつも発生してしまう。で、みんな報酬面でバラバラにされていて、売れなくとも「おれの固有性!」みたいにかえって分散不能性に固執する。これをやると一番得するのはインフラとプラットフォームになる。分断統治みたいなもんです。

早稲田文学 2017年初夏号」鼎談 第四次産業革命下にフィクションは必要か 小説の新たな技術のために
円城塔+武田将明+西川アサキ


おそろしい。まるで僕の勤め先の業界構造を云われてるかのようだ。環境を作ってる人は採算性とか収益とかあらかじめ計算しているのだけれども、プレイヤーたちは環境下で必死にやるだけだ。毎日必死だから、俺はベストを尽くしてるという誇りとか自尊心で自分を支えてる。だから自分の成果を一旦距離を置いてみて、分散可能なレベルにまで還元して他と混ぜ合わせて、みたいな発想は、どうしても困難になる。


個人の制作だろうが会社業務だろうが一緒だ。ベストは尽くすが、自分の限界を常に自覚するというか、いつでも捨ててしまえるというか、昨日までの執着物に対して急な解釈変更というか価値変動にも耐えられる心というか、でも真面目で優秀な人ほどそうではない感じもするところが難しい。


それにしても、コンテンツとしての弱さを攻撃に対する脆弱性という言い方であらわすのが面白い。読むとか観るとか聴くというのは、対象への攻撃なのだ。たしかに、信じられるか否か、好きになれるか否か、というのは、すなわちそうだな。まず攻撃してみるわけだ。