バレたとき

悪事がバレた直後の人間の表情。たとえば横領がバレたとか、不倫がバレたとか、誰かをかくまってるのがバレたとか。そんな瞬間をむかえたときの、当事者の表情。あるいは、ナチス時代のドイツ軍人や、スターリン時代のソビエト官僚が、組織内論理と規定に準拠して律儀に業務を遂行するうちに、次第に不条理的な状況に陥って、最終的には粛清対象となって処刑が決まったときみたいな、いつのまにか自分がその運命にあることを悟った瞬間の彼らの表情。朝の空気のように冴え冴えとした周囲の視線を浴びながら、その場にひとり、かたまったように立ち尽くして、ぎ然とした視線でどこか一点を見ている。そのとき彼は、具体的な何かを見ているわけではなくて、ただ考えている。今までと現在とこれからを、とめどもない勢いで、一挙に考えている。まさか夢ではない、ほかならぬこの自分が、信じられない、でもいつかこんな日が来るとわかっていた気がする、こんな瞬間をこれまで何度も思い浮かべた気がする、突然の出来事で、整理しきれない思いにとらわれてるさなかの人間の表情というものがある。そういう顔を、僕はなぜか、白人男性の顔として思い浮かべてしまう。たぶんいつかどこかの外国映画の、そんなシーンで観た顔なのだろうか。取り繕う余地いっさいなしの、すべてが明るみに出たあとの、もう言い訳できない、今までたもちづづけた化けの皮が、見事にぜんぶ剥がれた、表と裏の区別がなくなった、なにもかも終わった、その直後の、ひとりの人間の表情が、なぜ外国映画の登場人物になるのか。そういう外国映画が多いからか。なぜ日本人ではないのか。日本映画にそういうのは少ないのか、単にそういう日本映画を観てないだけか。なぜか日本人は「その表情」を持ってない気がする。それが、劇的な瞬間だからか。そんな瞬間を一つの終わり、社会的な死のように思うからか。自分にもいつか、社会的な死がおとずれるかもしれないと思うからか。でもその想像が、外国映画の登場人物のかたちで思い浮かぶのであれば、自分にとって社会的な死とはつまるところフィクションの範疇にあるのか。いや、映画というフィクションの範疇にあるということではなく、表情というフィクションの範疇において、自分は社会的死をむかえた自分自身を、ある種のカタルシスのようにそのイメージに重ねているのか。