有名美人


たとえば、店に入ったら、偶然、有名なミュージシャンとか俳優がいたとか、自分とすごく近い場所に位置しているので話しかけてもあまり不自然ではないくらいだとか、そういうシチュエーションも、ごくたまにはあるとして、で、おお、有名人だ、すげえ、とか思うが、だから相手に話しかけたり、握手して下さいとか、写真撮らせてもらっていいですかとか、そういうことはまずしないし、それをしたいという気持ちになること自体ないと言って良い。もし、自分がその有名人と握手したり2ショットの写真を撮ったりしたら、おそらくそのとき、自分が初対面の他人と一緒に写真を撮った、という感覚の方を強く感じると思う。その人をテレビなどで何度も観ていたとしても、実際にその場にいると、その場にいるということの方が強くなって、テレビなどで観たときのイメージを記憶に乗せて留めておくことができない。目の前の有名人に盛り上がれるような人は、おそらく目の前にいることと、今まで見た記憶のイメージが双方強くあらわれて絡み合って、その相乗効果で盛り上がれるのだろうと思う。


では、目の前の人が、有名な若い美しい女優だったらどうか?それは、さすがに自分も、盛り上がるのではないか。その場合は、目の前にいることと、テレビなどで観た記憶のイメージと、そしてその女性がじっさいにとんでもなく美人であることとの、三つ巴の相乗効果が期待できるわけだ。仮にテレビなどで観た記憶のイメージが、やはりその場において留めていられなくても、目の前にいて、かつ美人、というだけでも充分ではないか、とも思うが、想像するに、これも実際は、さほど盛り上がらないのだ。目の前にいる×美人というのは、意外と盛り上がりを呼び起こすパワーに欠けるのだ。おそらく、目の前にいるということが、もっとも強い力をもつが、それに較べると、有名人である(そのイメージが記憶されている)ことと、美人であるということは、どちらも意外に弱い。


有名人イメージが、その場にいる事実性に負けてしまうのは仕方がないとしても、なぜ美人であることの事実まで負けてしまうのか、というと、結局美人であることも事実ではないから、というか、美人性も有名人イメージに含有されてしまっているので、その場で生成される美人性ではないからだろう。だから、その場にいる事実性に含まれる美人性ではないと、それに惹かれたり盛り上がったりは出来ないということだろう。


まあ、もし仮にその場にいる事実性と美人性に強く惹かれて盛り上がったりしても、僕の場合はぐっと黙って俯いてるだけで、サイン下さいとか写真とかを要求するなんて、絶対にないと思うが。


そういうとき、相手に話しかけたり出来る人を羨ましいと思うことは、ないでもない。話しかけるというのは、やはりすごいことだ。新たな展開を開くことだからなあ。別に最初からそれを求めてない、とも言えるけれども、求める求めないに関わらず、開けるものを開こうとするのは、やはり貴重だ。


それにしても、しばしば思うことだが、若い女で美人である、というのは、テレビ画面の顔のアップ映像みたいなものとはぜんぜん違うし、作り笑顔でポーズしてるあの感じともぜんぜん違うし、やっぱり、美人というのは静的なものではなく、ある一連の動きというか、異なる体験を重ねた分厚い記憶を固めて1ブロック化したようなイメージとしてしか捉えられないものなのだろうなあと思う。


そのブロックの中に、静的な情報つまり配置の美しさとか均整とかも入るのだが、それは一部で、もっと異なる種別属性の要素が強引に含みこまれるというか、たぶん人物に属する部分とその周囲の時間までをも含むような大きな括りとしてブロック化されて、それを美人であるとして記憶されるのではないかと思う。だったら動きを伴うイメージでなければ美人とは見なせないのか?と言うと、それは違う。たぶん一枚の写真からでも、そのようなブロック化は可能なはず。


いやいや、ちょっと、もうちょっと違うのだ。こんなドンくさい言い方ではなく、もっとリアルに、ふとそのときに感じるときのその感じ。美人性をとらえるのは、難しい。