木の下で

大学生だったのは、三十年も前のことなのだ。三十年前って、半端じゃない。今と三十年前では、景色がまるで違うだろう。記憶にある景色の、実際はほぼ失われているはずなのに、今でもまだ当時のイメージを思い出すことができることは、嬉しいようでもあり、残酷なようでもある。

事実が書き替わっていくなら、それが全生物によって知覚された実績総量の増加にともなって、個々に取り出される過去の記憶も、それに連動して上書きされた最新イメージになっていて良さそうなものだ。もしそのような一元化が為されるなら、記憶の総量はずっとコンパクトになるだろう。でもそうはなってない。であるなら、当時の記憶だと自分が思っているそれは、まだ記憶自体として実在はしているとも言える。

景色あるいは人の容貌・外見も、三十年という時間の経過によって変化していく。あの人の顔立ち、表情、かつての記憶と、現在のその人に相対したときのイメージとのあいだに生じる、ある残酷なズレ。お互いがお互いの顔を見て、バラバラになった過去の記憶の欠片をその場で修復しつなぎ合わせる作業で、うつろな目を泳がせてる。でもやはり三十年前のあなたも、まだ私の記憶自体として実在はしている。

それに引き換え、樹木は頼もしい。三十年前と同じ場所で、私が誰かと再会して、お互い顔を見合わせていたとしても、そんな我々の様子を見下ろすかのようなこの樹木は、当時と今とで何も変わっていない。いや、樹木であっても三十年の時を経れば変容する。さすがに当時とはまるで違う。しかし少なくともその違いは私にわからない。この木は当時と今とで何も変わっていない、そうとしか思えない。ならば樹木から見て、私たちは変わっていないだろうか。そもそも樹木は人を個体判別しているのだろうか。