描写

RYOZAN PARK巣鴨保坂和志の小説的思考塾vol.8〈描写を中心に〉を聴講。以下自分なりの解釈によるメモ。

小説において、風景の描写は小説の中心的役割を担うわけではなく、あくまでも副次的な要素なのだfが、しかしそれ無くしては小説がなりたたない。描写こそ小説世界の厚みとなる。そのような厚みをまったく持たず必要としない小説もあり、むしろ最近はそのような小説の方が多いかもしれない(小説を単純で一義的な情報と見なすなら描写は余分な要素に過ぎない)。描写がなされることで、対象があらわれると同時に、説明主体の「身振り、居ずまい、クセ」もあらわれる。それを見て感じたという書き手の経験が、読み手の内側に再起する。読むことを急ぐ読者からは読み飛ばされてしまうかもしれないし、仮にそれでもかまわないが、描写こそが小説の内実。

描写=写生・写実ではない。微細に書き込むことで精度が上がるわけではなく、むしろ客観性や正確性はさほど重要ではない。場合によっては事実と違ってかまわない。カフカの「アメリカ」で、自由の女神が掲げている剣と描かれているが、現実の自由の女神が持っているのは剣ではない。事実とは別のリアリティ、言葉から召喚される必然性を優先させること。名作にも変な描写はたくさんある。なぜ対象が(視線・関心の先が)そちらへ行くのか、なぜその比喩にいくのか、過去の名作は説明のつかない妙な描写の宝庫である。

美文である必要はない。世間で文章が上手いと云われるような文のなんと退屈なことか。形容詞を中心に考えない。それをすると結果的に狭い場所へ追い込まれるだけ。韻文と散文の違いをきちんと捉えること。中途半端な詩の良さへ逃げない、詩のように美しいという言葉に誤魔化されないこと。自身の経験の記憶から生まれてくる、イメージから生み出される名詞と動詞の連鎖をおそれずに連ねること。散文の力を最大限に使うこと。

描写を重ねることで生まれてくる言葉のリズム、うねりのようなグルーブ感。これこそが重要。ガルシア・マルケスフアン・ルルフォらラテン・アメリカ文学に出てくる描写のカッコ良さ。カッコいい言い方をするのではなく言葉自体が湛えているカッコよさ。小説全体がもつ底知れぬ厚みの感じ。逆に書きたいことはいっぱいあるけど描写がない小説の薄っぺらさ、平坦さ。

小説は書かれていることがぎっしりとあって、それを始めと終わりの二つの蓋が閉じ込めているようなもの。始まりと終わりなんてどうでもいい。付いていればいいだけ。物語もどうでもいい。ストーリーなんてほとんどパターンでしかないのだから別になんでもいい。書いたそれが、この後どこへ行くのか、それこそが小説を書くということ。