減衰無し


もし、自然そのものをプログラミングできるとなると、此方と彼方に差異がなくなることになり、フレーム枠内と枠外の区別が無意味になる。


ただ僕は、結局人間の記憶が減衰する、という点に、ポイントがあると思っている。


作品というのも、まず過去の記憶という、人間にとって存在するかしないか曖昧な不思議なものがあるから、はじめて成立すると思っている。


かたちや色、そのニュアンス、イメージを体験する、というのは、それを、自らの過去に貯蔵されたものと付き合わせたときの自らの反応を感じるということで、当然ながら、それとこれは、絶対に一致しないのだが、まったく一致しないわけでもない。その段階に応じた無限のバリエーションが、作品体験ということになる。


もし、人間の記憶が一切減衰しない事態が訪れたら、それとこれが、完全一致するのだから、イメージという入れ物自体が、必要ではなくなるということだ。


しかしそれが実現するためには、人間の記憶が一切減衰しないだけの、無限の記憶領域が確保されなければいけないということになる。それが事実上、不可能なら、まだ記憶が減衰する余地はあるのでは?とも思う。それとこれが、必ずイコールにならないという可能性が、残される。


記憶が消えない、というのは、要するに、相手が立ち去らないということだし、移動しないということだし、さっき居た人が今は居ない、という事態も起こらないことになる。


だから、そんな世界はすでに自分はもう死んでいると思う。生きているとしても、今この自分ではない自分が生きているだけだ。


ほぼ完ぺきに、これとそれが一致してしまったら、イメージの価値が大幅に下落することは確かだろうが、そのときは、今の僕も今の僕じゃない(今のような意識は成立しない)し、それを継続させる必要性がない。


というか、それだともう、さすがに死なないのではないか?