The Wild Man Of Pop Plays Volume 2


ところで「The Wild Man Of Pop Plays Volume 2」は正規盤のレコードではなくて、67年11月オランダのテレビ放送、同月イギリスBlackpoolでのコンサート、翌月に撮影されたドキュメンタリー映画の音源、そして67年10月パリのオランピア劇場でのコンサートなど、権利関係がクリアされているのかも不明な、典型的な寄せ集めの音源集である。収録曲は以下の通りだ。


キャットフィッシュ ブルース
フォクシー レディ
紫の煙
紫の煙
ワイルド シング
ヒア マイ トレイン ア カミン
フォクシー レディ
風の中のメアリー
ロック ミー ベイビー
レッド ハウス
紫の煙
ワイルド シング


「キャットフィッシュ ブルース」冒頭で、じょじょに聴こえてくるギターのトリルは、まるであやしい煙が立ち込めて部屋一杯に広がってくるかのようだ。全編ワウ・ペダルを強力に効かせた演奏である。ワウペダルとはペダルの踏込みでギターのトーンを変更できる、文字通り"ワウワウ"云わす事ができるエフェクターだが、僕は当時、このエフェクターのことをまだ知らない。知らないままで、やはり大変な衝撃を受けたと言うしかない。ショックで身動きできず、身体を羽交い絞めにされたままのような状態で、ただ音を聴いていた瞬間をいまだにおぼえているほどだ。後半のギターソロになると特に…いやしかし、これが、ほんとうにギターソロと言えるのか。というかこれがサウンドだろうか。何か粘り気のある、ぼたぼたとひっきりなしに流れ落ちる、ひたすら有機的な、どこまでも留まることを知らない不定形な何か。そのようなイメージというか、これは本当なら、音が脳内にもたらすイメージでは無いはずの、何かではないか。そうとしか思えない。そう思った。音質は当時の録音物としてはまあまあだが、ザラザラとしたノイズや細部を失って単純化された波形が、かえってその場の逃れようの無い臨場感を表現し尽しているかのようだ。


…その後、「Foxy Lady」「Purple Haze」と続く。さて次の驚きはどれだっただろうか。それにしても「紫の煙」「風の中のメアリー」という日本語タイトルは印象的だった。ロックミュージックに名付けられたものとは、あまり思えなかったし、公演会場も、パリのオランピア劇場とか、その場所について知らないからだけれども、会場名だけ聞くと、ジミ・ヘンドリックスのイメージとはずいぶん違うように感じたものだ。「紫の煙」など、同じ曲が二曲連続、終盤にもダメ押しでもう一曲、合計三曲収録されているのも、そんないいかげんな収録というものがありうるのかと驚いたものだ。


そもそもレコードジャケットが実にいいかげんというか投げやりなデザインで、それは音楽媒体のパッケージというよりは、栄養剤とか小麦粉とか食品類のパッケージのようだった。短時間であまり手間を掛けずにさっと作られたもの、という印象を受けた。そのようなレコードを製造することで生計を立てている、そのような生き方があり、そこで作られたレコードがあって、まだ僕にはわからないようなそれらの受け手がいて、まったく知らない世界でそれらの取引がされているのだろうと想像した。まだ何も知らないばかな高校生だったけれども、おそらく中間の部分をなるべくすっ飛ばして、低予算で、もしかしたら法律的にもスレスレで、なるべく速く相手に届けるべく、最短のコストで出されたもの、という感じだった。それもこれも、すべての目的は、この内容物の衝撃を一刻も早く、一人でも多くの人間に届けなければいけないからだと思った。むしろそれを、目的の最大優先事項とするならば、それ以外の要素はすべからく簡素にならざるを得ない。それはたしかに、納得できる話であった。


「風の中のメアリー」は何とも簡素で楽曲構造が丸見えな感じのするバラードで、これはおそらくコワモテの役者でも時には優男や女々しい男の芝居をしなければいけないのと同様、ジミ・ヘンドリックスほどの偉大なミュージシャンでもとりあえずこういったスローな曲を、あまり自分の体質にそぐわないような、あまり気の進まないような曲調だとしても、こうしてそれらしく演奏せざるを得ない、そういうものなのかもしれないな、などと思った。当時まだジミの宝石のような楽曲群のほとんどを知らない、それこそLittle WingもElectric LadyLandもCastle Made Of Sandも聴いたことがない人間の、じつに浅はかで愚かな感想であった。しかし「風の中のメアリー」はぜんぜん悪くない。とても良い。当時からそう思っていた。今聴いてもそうだ。ジミのボーカルの素晴らしさは、ことにスローな曲でじつにきわだつ。


「レッド ハウス」は僕の、衝撃のRed House初体験である。…って、初体験のレコードについて書いてるのだから、全曲初体験に決まっているのだが、しかしこれ以降の僕は、いったい何曲もの、いったい何種類ものRed Houseを、Purple Hazeを、Foxy Ladyを聴くことになるのか、当然ながらこの時点では一切わかっていなくて、しかし僕にとっては、本作収録の「レッド ハウス」こそが、三十数年後の今になっても、突出したベストテイクであると断言したい思いがある。これも、まさに筆舌に尽くしがたい。何しろ、まだ曲が始まる前、ジミが「ブルースをやるよ」みたいなことをマイクに向かって一言喋り、ギターでそれっぽいフレーズを少し弾く。もうこの、ほんの一小節くらいのギターの音とフレーズ…。当時の僕はもう、これだけで、あまりの凄さに倒れそうになったものだ。このフレーズの何が良いのか、説明できたら凄いことだ。そこだけ自分のギターでコピーしたりもしたけど、同じようには聴こえないのだ。同じように聴こえるのかもしれないが、自分本人にはそう聴こえないのだ。もっとぜんぜん、まるで違うのである。ギターもアンプも調整されたトーンも違うのは当然だし、それを取り囲む空間も違うし、それを弾く指の、指の力、かすかに掛かっているビブラート、さすかに、半音のさらにもう半分くらい持ち上がっているピッチの感じ…、それら全て。そしてその録音過程、録音物になって流通されて、今ここにある、それらが、今ここで生み出そうとするものと、まるで違うのである。なんでこんな、当たり前のことばかり無駄に書くのか、呆れるしかないが、書こうとすると結局そうなる。


「Red House」はジミの活動期間中、初期から晩年までずっと演奏され続けた楽曲だが、そのほとんどはスローブルースできわめて内省的、個人的な、自分の内側にひたすら問いかけるような、如何にもソウル的というかベタベタの濡れ濡れのエロ的表現を極め尽くそうとするかのような演奏がほとんどであるが、僕は1stアルバム収録の最初のテイク、ならびに本テイク「レッド ハウス」の、ややミディアムテンポでファンキーなニュアンスをものすごく愛している。軽快で、乾いていて、音の響き方に、個人的にはニューウェイブ以降のパンク・ガレージっぽさを強く感じてしまう。ソロで弾かれるフレーズも一つ一つが恐ろしく太くて強い。ブルースのウェットな個人性に落ち込むことなくノイズにまみれた無機質な開放性の方が最大限に横溢する。これが自分にとって、もっとも理想的に感じられるブルース曲である。


最後から二曲目に収録された「紫の煙」は、これも演奏が始まる前にかなりもったいぶった雰囲気で、シーンとした静寂感さえある中で、さあ今から始めるよ、みたいな感じで、おもむろにギターのボリュームが上げられる。たちまちのうちに猛烈なフィードバック音があたりに充満する。…こういうの、今では当たり前かもしれないが、当時の自分には、信じられないような瞬間だった。こんなのありか?と思った。やって良いことと悪いことの垣根を越えた、と思った。


この後、何日後か何週間後か、有名なモンタレーでの、ステージでギターを燃やすパフォーマンスの映像なんかも見たけど、そんなのは今ここで聴いている唐突なノイズ大会と較べたら、ほとんど何でもないものとしか思えない。というか、ジミのモンタレーのステージにおけるギター炎上パフォーマンスは、完全に観客への効果を狙ったもので、ある意味「映画」っぽいというか、かなり禍々しいのだが一応きちんと雰囲気の枠に守られた中で行われている感じがあって、だからそれを「映画」のように観ることができてしまうのだが、この「紫の煙」イントロは、そうではなく、何もない埃っぽいザラザラとした場所で、今現実にここで、いきなりそれを実行しているかのような、ほとんど背筋を冷たいものが走るような迫力がある、最初そう感じたし、その後もずっとそうだ。


ノイズというのは、それを聴くべきなのか、それの傍らに佇んで、それが過ぎ去るのを待つべきなのか、ふと迷うことがありはしないだろうか。僕のノイズ初体験は完全にジミ・ヘンドリックスだが、そのどちらでもないしどちらでもあるような時間の果てしなく続く状態というのを、はじめて体験させてもらったということになる。


しかし、ジミ・ヘンドリックスの音楽全体に言えると思うのだが、どう考えても不思議なのは、なぜこんな音楽が生まれたのか、これに似たことは、もしかすると他の誰かにも可能だったかもしれないが、しかしこれほどまでにあらゆる要素を渾然とさせて、しかもそのすべてが、まるでどこにも定着しておらず、ゆらゆらと蠢いているような状態のまま、ほとんどがやりかけの、何かの途中でしかない、しばらくしたら全てが消え去っていてもおかしくない程一瞬のうちにしか実現しないような、ほとんどありえない何かを捉えた、連続したスナップショットの、ほんの一部だけ確認しているような、そういう音楽、音楽というよりも、その内実の一部が見えてしまっているような感じでありうるのか、ということだ。