意味の暴力

姪の子は小学校一年生、学校に通い始めると語彙も増える。テレビや友達同士の会話でさまざまな言葉を知る、言葉を知るということは、その意味にともなう仕草や態度を知るということで、そのような人の立ち振る舞いのありかたを知るということだ。人間の、いくつもの立場の使い分けや感情のコントロール、手持ちの札を自分なりに工夫して、相手に切る順番を変えるテクニックなども、すべて言葉の意味内容から逆算して知っていくのだと思う。だから子供は大抵、唐突きわまりないタイミングで、思いもかけないような言葉を突如として口にする。その唐突さとは、今まであなたの内面にそんな「立場」や「感情」のわだかまる余地があったなんて、まるで想像もしてなかった、というか、本当はそんなの無いんでしょ?たった今、言葉だけでそう言ってみたいんでしょ?…という類の唐突さだ。というかそんな「立場」や「感情」なんて実際はなかったのに、その言葉を使ったことで事後的にそれが昔から存在していたことになる。この子の心は、ずっと昔からそうだったことになる。こうして子供はどんどん遠くへ離れていくのか。たとえば、お父さんに向けられる「キモチワルイ」「アッチッイッテ」「ウルサイ」などの「心無い」言葉、本来そんな感情はないはずなのに、その言葉が生成してしまう「娘の心中にあるかもしれない嫌悪の感情空間」ともいうべき場を一挙に想像してしまって、お父さんはそのことに時折耐え難いものを感じる、このまま行くと、数年先には自分の心が折れて二度と回復できないかもしれないと、本気とも冗談ともつかぬ様子で苦笑しつつ言う。これまで四十何年か生きてきてきたけれども、今ほど酷く言葉で痛めつけられた経験はなかったと嘆く。それを聞いて、子供の言葉に一々反応してたんじゃ身体がもたないわよと、お母さんは笑っている。しかしお父さんはなおも浮かぬ顔で、それを理屈ではわかっても実際にある種の言葉が自分に向けられるとしばらく立ち直れないほど傷つきショックを受ける。お母さんは笑いながら、不機嫌だったり怒りをあらわしたりするときの、娘の言葉の使い方や選び方が、如何に紋切り型でこの世の皮相な言葉の群れから適当にサンプリングされたものでしかないかを、いくつもの例を挙げて示す。それを聞いていると我々は笑ってしまうが、お父さんだけは相変わらず浮かぬ顔だ。