プリズン・サークル

快晴の空、空気は初夏の肌触り、そして暑さ。昼過ぎから早くも枝豆とビール。

仮設の映画館(https://www.temporary-cinema.jp/)で配信中の、坂上香「プリズン・サークル」(2020年)を観る。島根県の刑務所でTCと呼ばれる官民協働の更生教育プログラムを受講する受刑者を記録したドキュメンタリー。四人の受刑者の様子が二年間にわたってとらえられている。みんな二十代の若者で、詐欺とか障害致傷とか窃盗とか、罪状も刑期もさまざま。全国に受刑者は約四万人いて、そのうちTCプログラムを受講できるのは現状では彼らを含めた四十人とのことで、欧米では昔からわりと活発に取り入れられ再犯抑止効果も高いとされるこの取り組みの更なる理解と活用が日本でも広がれば…と僕は本作を観て思った。

原則として刑務所内の生活は刑務官監視の下で規律的に過ごすことが厳しく義務付けられているが、TC教育時間中は受刑者同士が大部屋にお互いにディスカッション可能なかたちで、椅子をぐるりと並べて全員が向かい合うかたちで進められる。司会進行役を司るように指示された受刑者は、全員の前に立って黒板に板書しながら、周囲に質問したり意見を請うなどして相互に対話をすすめる。そのやり取りをサポートしプログラムを管理しつつマネジメントしているのは、民間から派遣されたおそらく臨床系の専門知識をもった感じの指導員だ。

そこで暴力とは何かとか、自分の心の弱さとは何かとか、他人の心を想像するとは何かとか、そういったことを自問や多聞などさまざまなやり方で対話・討論式で進めていく。アル中とか麻薬中毒患者の更生施設とかと似たところもあるかもしれない。いくつもの視点や意見に自分を開き、開いた自分を見る相手の様子をまた自分が見て、共に問題を自省していこうという試み。それで自らの心の奥底にある痛みや、苦痛や、暴力衝動や、罪悪感や、自己否定感を、それをそのまま心に抱えたままで生きていくための訓練というか、周囲と折り合いを付けていくための、納得できない何かや、罪悪感をかかえる自分をぎりぎりのところで自己肯定できるように、社会を構成する人間として必要なそれを探るという、犯罪者だろうがそうでなかろうが、じつは誰もが思いあたる、じつはけっこうぎりぎりのところでみんなが隠し持っているけど意識してない、あるいは見えないふりをしている、胸の内にそのままで持ちこたえているに過ぎないこと、そのやり方を知らないか、たまたま見失った人たちが、再び適切なバランスと力の加減を思い出す、あるいは生まれてはじめて実感する、そのためのメンタル治療という感じだ。

撮影対象の受刑者たちは、皆若くて、過去に家庭環境や人間関係で問題をかかえたことが例外なくあって、とくに幼少時における父母との関係が破綻か消失している事例が多い。インタビューを受ける彼らの言葉は、しかし意外に思えるほど静かで落ち着いた印象を受ける。怒りや感情の爆発という要素は、まるで感じられない。ただ、わからないのだとくりかえす。どこまでも静かに、彼らは「心の休まる場所というのが、自分にはわからない」とか「窃盗がなぜ悪いことなのか、どうしてもわからない」とか口にする。それは今に始まったことではなくて、じつは誰もが知らないことで、とりあえずわかったような気分でいるに過ぎないことでもある。何十年も前から繰り返されてきた実も蓋もない言葉、それに回答としてピッタリあてがわれる言葉は無くて、でもその答えとは違った何かの作用で、そういうことを考えずに社会生活を実施できるように馴治されるのだし、なぜこの財布を盗ってはいけないのか?と問われて、たぶん拾った財布を盗らずに警察に届けるだろうこの僕にも、その答えはわからない。絶対バレないのに、あるいはバレても良いのに、僕はなぜ盗らないのか?答えろと言われたら、もっともらしい答えっぽい言葉なら言えるかもしれないが、たぶんそれは大した言葉ではない。但し…というよりもそれが、答えとされているのです。というのが、本当の答えなのだ。そして、そのことを知る必要があるということなのだ。答えは無くて「知るべきこと」がある。そのためにこうしている。「知る」とは、それを抱えたまま動けるということだ。

加害者と被害者に分かれてのロール・プレイングによって被害者の気持ちを想像するとか、更生して幸せになろうとする自分と、罪の意識をずっと持ちつづけるならば自分に幸せを目指す権利はないと感じる自分を二役にわけて、向かい合った椅子に座って、あたかも二重人格者のように疑似的な二役の対話をくりかえすとか、観ていると興味深く、プレイヤーの受刑者も激しく号泣しながら内面の葛藤に苦しんだりもするのだが、しかしある意味予定調和的という印象もある。どうしても規定の「こう考えるべき」のレールに、無意識に沿ってしまっている感じも受けるのだ。しかしおそらくそれはこの教育方法の弱点ではなくて、というよりも、それを予定調和ととらえるのは一面的、というよりもそれこそ第三者の均質視点でしかなくて、この教育の効果はむしろそのやり取りをずっと見続けている他の受刑者に、より強く様々なかたちで作用するのではないかという感じもあるのだ。実際、涙を見せるのは告白したり疑似的に糾弾される当事者だけではなくて、それを傍観している「観客」たる他受刑者だったりもするのだ。または「被害者役」として、相手を糾弾する役を請け負って演技する、単なる「配役」としての別の受刑者だったりもするのだ。それが物語としてどうなのかではなくて、仮のフレームに括られて一時的に生成されたもう一つの現実(ある記憶のやり直し)を、自身としてあらためて見出した時に、はじめてその「悲惨」を自分の感情で感じる、そのときにはじめて強い「リアル」が生成する。その瞬間には、なかなか慄くものがある。人間が社会的な存在として生きるために必要な滋養というかエネルギーを得るには、やはりフィクションの力しかないのか…と思う。