父の位牌と遺骨を携えて埼玉の実家へ行く。父親がこの家に来るのはじつに三十余年ぶりである(…まあ、死んで遺骨の状態なわけですけれども)。両親と古い知り合いのSさんご夫婦と、久しぶりにお会いする。たぶん最後にお会いしてから二十年近く経つはず。あまり変わらないわねと言われ、全然変わらないですねとこちらも返す。たぶん実際はお互いにそんなこと無くて、過ぎ去った時間のぶん大いに歳を取ったのだと思うが、お互いを見てもなぜかあまりそうは思わないものか。しかし話し方といい声の感じといい冗談の言い方や笑い方といい、ほんとうに何十年かの隔たりを経てお会いしたようには思えない。かなり久しぶりですね程度の感じ。
あるお金持ちの息子が多摩美大に入学して、その父は学校から程近い溝の口へ集合住宅を建てた。そこに息子を住ませ、他の学生たちにも家賃を取って住まわせた。やがて息子は卒業したが、その後も住宅にはさまざまな学生たちが次々と移り住み、やがて去っていった。集合住宅と言っても部屋が個別に別れているというわけでもなく、もっと簡素でざっくばらんな、でかい作業スペースといくつかの小部屋と水周りなどの、実質的には学生たちの共同生活場兼アトリエという感じだった。その場所は、山のアトリエと呼ばれた。誰かが抜けると、紹介された誰かが、替わりに入ってきた。あの人の替りがあの人でさらにその替わりがあの人と、皆が繋がっていた。やがて僕の父も誰かの替わりに住人となった。Sさんはまた別の人の入れ替わりとして別の人から紹介されて、信州の実家から父親と共に上京した。上野駅に到着したが、電車での溝の口への行き方がわからず、四谷の安宿に一泊して翌朝早朝にようやく着いた。アトリエの板の間には人が折り重なるようにして雑魚寝していた。1960年前後のことである。
Oさんのお宅であなたが功一郎さんとマージャンしてるとき、あたし留守番してたら友ちゃんがまだ赤ちゃんだった頃だから泣き出しちゃって止まらなくて、あたしどうしていいかわからなくって電話して、それであなたに帰ってきてもらったんだっけ、そうよ、ひどい母親よね、ひどい生活、でもそのときはもうここに住んでたわよ、でもまだ、この部屋のなかった頃よね、あんな狭い家でねえ、そのさらに数年前、父と母が上京してすぐの、杉並区に父と母が住んでいた時期、まだSさんは奥さんと結婚していない。僕はもう生まれていたけれども、そのときの記憶はまったくない。1970年代の前半、父、母、自分、(妹はまだ誕生前)の家族に、杉並の時代と国立の時代があったというのは、僕は話としてしか知らない。そのことは僕にとって、貴重な記憶をはじめから遺失していたような、その時だけ存在したはずの楽しさを自分だけ取り逃がしたような名残惜しい気分として昔から自分の中に残っている。で、あれは国立の家だったかしら、でもあのときもまだ杉並はあったのよ、M君とS君の二人を受験で面倒みてたのよ、で、一人は受かって一人はダメだったのよね、そう、でもあのときあの二人に住ませて、あの家はしばらくずっとそのままだったのよ、それにしてもあんな狭い部屋に、よく四人で寝たものだな、あの時代は、あんな狭い間取りが当たり前だった、私は気付いたら、あなたのお父さんが隣に寝ていたこともあって、その場で二人でずっと話してたこともあったわよ、あたし功一郎さんが亡くなった日だけど、なぜかそのことを、急に思い出したのよ、そんなこと不思議じゃない?すごく不思議だと思った、虫の知らせかしらね、そういうことってあるのかしらね、違うのよ、あの人ほんとうに女には酷い態度なのよ、あらそう?あたしそんな風に思ったこと一度もない、さっちゃんには優しかったのよ、あの人がというか、あの人の生まれたあの土地がね、ほんとうに男尊女卑よ、夫が妻に横柄な態度を取るのが当たり前だってことになってるのよ、信じられないくらい酷い言い方するのよ、だからあたし、ほんとうに嫌だった、急に怒鳴り散らして、偉そうな言い方でねえ、それでみんな、しゅんとさせて嫌な空気にさせて平然としてて、ああいうのが、当たり前だと思ってるのよ、えー本当?あたし功一郎さんのことぜんぜんそんな人だと思わない、あたしには優しかったもの、だからさっちゃんには優しかったのよ、ちょっと生意気っていうか、何か言いそうな女が嫌いなのよ、あたしとか、Iさんとか、すごく嫌われるのよ、でもあたしもけっこう言ったわよ、だからさっちゃんには優しいのよ、あんまり嫌な感じしないからかしらね、まあでも功一郎さん、喧嘩もしょっちゅうだったからなあ、頭にすぐ血が、かーっと昇ってなあ、そうするともう大変だからさあ、あれはずっと何も変わらなかったね、そう、最期までいっさい変わらない、というか、変われない、僕に対してもそうですよ、それ以外のやり方を知らないというか、まあでもそれだけ一貫してたとも言えるかね、一貫してれば良いってわけでもないけどね、まあでも、つき合わされる方はたまったもんじゃないけど、昔も銀座でYさんと揉めてさあ、今では笑っちゃうけどさあ、皆で止めてさあ、それであそこはもうギクシャクで全然だめで、でも仲良くできるわけないわよ、性格が最初からぜんぜん合わないもの、それにしても本当に凄いよね、あの人もそうだけど、あの人も大概よね、それもすごいね、そういうのって考えられる?ちゃんとあの人のお世話でね、しかもいちばん偉いその人の息子さんが全部取り仕切っててね、でも、ありえないわそんなの、なんだか別の国の、別の人達の話を聞いてるみたいだわ、ものすごいね、とんでもないね、正直、作品より人間の話聞いてるほうが面白いわ。でもこうして喋ってると、やっぱりずっと悪口ばっかりよね、そりゃそうよ、見てると位牌が、がたがた震えだすんじゃないかしら、あんなに小さくなっちゃったら反論したくても出来ないわね、でもいいのよ、悪口でも何でも、故人の思い出をこうしてお話するのが、供養なのよ、そうそう、そうよ、きっと聴いてるわよ、今頃、悔しい思いしてるわよ、でも不思議と死んだら、色々とわだかまっていたものとか、どうしても納得いかないこととか、なぜか、ふっと消えてしまうのね、もう何十年も消えなかったのに、それで、まあいいか、しょうがないのかっていう気分になるのよ、そう思えてしまうのね、それって、すごく不思議なものよね。
帰りに思い付いて、池袋のバーに少し寄り道した。学生のとき何度となく来て、その後ぱったり行かなくなって、たしか十年以上経ってから、久しぶりに再訪したのが2007年。で今日がその日以来だから再び11年ぶり。圧迫感のある壁に囲まれたL字カウンターだけの店内の様子は、おどろくほど昔のまま何も変わってなくて、さらに予想に反して、店主も昔と同じままでそこにいた。さすがにもう引退して別の誰かが替わりに立ってるのだろうと予想していたのだが。俺ももう六十八だよ、この店は三十年越えたからねと。店主はさすがに僕のことはおぼえてなくて、簡単に説明したら笑って、でも次また十年後に来ても、もう俺はここにいないからね、店もないかもよ、と言う。いや、実はですね、僕が十年前にここに伺ったときも、たしかやっぱり同じようなこと言われたんですよ、と言ってこちらも笑った。