些細な


「偽日記」を読んだら観たくなって、ジム・ジャームッシュ「パターソン」を再見した。で、とりあえずあの犬は、何なのか。なぜああいう行動をするのだろうなと。


ある夜、パターソンは車に乗ったガラの悪そうな若者たちから「ワンジャックされないように気をつけな」とか忠告される。つまり犬をさらわれるなよ、と言われるのだが、この「フラグ」はまるで回収されない。パターソンは毎晩、犬を散歩させるが、その途中でバーに寄ってビールを飲む。犬はその間、人気の少なそうな店の外の壁に繋がれてぽつんとご主人が戻るのを待っている。如何にも誘拐されそうな、その気になれば簡単に連れ去ることができる状態だが、結局犬は映画の最後まで危機に窮する気配もない。


犬はたぶん「詩人」をわかっている。少なくともパターソンと同類である人物を見分けることができるようだ。前半にコインランドリーでラッパーが一人で練習しているとき、パターソンは彼に話しかけるのだが、最初に犬がそのラップを聴いている。


パターソンは「同士」である詩人には当然のようにわりと気安く話しかける。というか見ただけで相手が「同士」かどうかをわかる。十歳の少女の自作の詩を朗読してもらい、強烈なイメージ喚起を得てパターソンは少し興奮する。僕の勝手な想像だが、このときのパターソンの様子を見て、犬はある種の危機感めいた何かを感じているようにも思われる。何事かの対処をしなければと思っているような感じがする。


パターソンは自宅前のポストがいつも傾いているのを直してから玄関に向かう。そのポストがいつも傾いているのはじつは犬の仕業である。


パターソンは奥さんとの約束どおり週末に自分のノートをコピーしてバックアップするかもしれない、それを犬は知っている。だから二人の不在時にノートを粉々にする。


犬はひどく叱られてガレージに閉じ込められたりもするが、しょげたり反省したりする様子ではない。何もわかってないような感じもするし、確信犯的な感じもする。そして散歩のときにパターソンを滝のある公園の方角まで無理矢理引っ張っていく。パターソンはそこで、いわば犬に導かれて永瀬正敏と出会う。


…おそらく、たぶん、犬にあまり過剰な意味はないのだと思う。そこを深読みしても仕方ないかもしれない。


「パターソン」を観たときの思いはとても複雑なものだ。これを感動と呼ぶのはためらわれる。胸に迫るものがあるのだが、それは喜びとも悲しみとも言えない複雑なものだ。


この映画をはじめて観たときは、まず浅墓な予想として、この夫婦が週末までに双子を妊娠するのかなと思ったし、犬が誘拐されるだろうなと思ったし、バスが壊れることもあるかなとは思った。しかしおおむね、何も起こらなかった。起こっても、大したことではなかった。せいぜい、奥さんが手作りクッキーで200ドル売り上げたことくらい。それで久々に二人で古いホラー映画を観て、食事して帰ってきたくらい。あとは細かい出来事の連鎖がまた別の出来事を呼び出したり、しかし、おおむね何も起きてない。些細なこと以外は、何もない。ほとんど誰にも知られてないノートが、一冊消失しただけ。世の中は何も変わってない。


しかしそれで良い。いや、ぜんぜん良いわけではないのだが、それはそうとしか言いようのないことなのであった。