新宿武蔵野館でジム・ジャームッシュ「パターソン」を観た。これは、ぜひ観た方が良い。以下の文章を読まないで、まず作品を観てほしい。
月曜日、朝、主人公が目を覚ます。腕時計で時間を確認すると6時10分である。僕は毎朝6時20分に起きるので、大体一緒だな、と観ながら思う。しかし主人公のパターソンは、とくに目覚ましとかアラームとか無しで自然に起床する。隣で寝ている奥さんが寝ぼけた声で、私たちの間に双子の子供が生まれた夢を見たとか、そんなことを、むにゃむにゃと話すので、しばらくそれを聴いてあげる。一人で起き上がって簡単な朝食をとる。職場に行く。仕事する。夕方帰ってきて、食事して、犬の散歩に行く。途中バーに寄ってビールを飲む。帰って、眠る。…それで、それが繰り返されて、翌月曜日の朝まで来て、この映画は終わる。
館内はそれほど混んでもいなくて、何席か隣の人が、花粉症のせいかずいぶん鼻をグスグスと言わせていて辛そうだった。しかし花粉症のせいではなくて、もしかしたら、観ている間、ずっと涙に暮れていたのかもしれない。そんなことあるか?あるかもしれない、もしそうだったとして、少しもおかしくない。館内全体が、映画を観ながら、静かに無言で泣いていたとしても、もしかしたらそれもありうるかも、と思ってしまう。これみよがしな泣き要素など、一切含まれないし、ちょうど季節的に最近の夕方くらいの空気と光のような、カラッとさっぱりした手触りの作品であるが、しかし、いや、だからこそ、ほとんど本質的な意味での、生きていることそのものの、ふだんは忘れているけれども、ふと思い出したらいつでも泣きたくなるような、心の穴というか空虚のような、ほとんど甘美さと紙一重のかなしみのようなものに、この作品は届いているという感じなのだ。
観ているとき何度か、保坂和志のいくつかの作品、この前読んだ新作の「読書実録」とかを思い出したりもした。保坂和志の作品を、ほとんどロック・ミュージックそのもののように感じるときがある。理解を求めるな。むしろ理解させるな。拒否しろ。何も渡すな。さもしい真似はするな、安売りするな、媚へつらうな。そういうことのように感じもする。それほど攻撃的ではなくても、それを誰かに渡さない、明け渡さないということは、そのまま生き方への覚悟を決めることに等しい。本作の主人公は、その意味で、おそろしく気高くて、そして優しくて、優しさゆえに、そして愛する対象を尊重することのよろこびゆえに、ときには自らを譲歩することに対して、ほとんど恐れを知らない。だから彼の内にある彼自身が守るべきものを、彼は場合によっては、いつか手放してしまうことも、あるかもしれない。しかしこの世界では、時間や空間を越えて、誰かと誰かが、まるで当たり前のうようにして不思議な連帯の関係を結んでいるらしい、どうもそのようなのだ。あらゆる兆候や予感の重なりを経て、まるで隣人のように見知らぬ少女が自作の詩を朗読してくれるし、飼い犬は飼い主を次の場所へ案内し、行動を起こし、まったく唐突に、また別の使者があらわれ、そこでもまた出会いが生じる。そして引き続き、営みは守られる。それは時間も空間も越えた連綿と続く仕事だ。
自分のような者でも、この映画に心をふるわせる資格があるだろうか?できれば、そうありたいと願う。死んだ後に、自分はそうだったと言いたい。この映画は、そのような自分を守ることを肯定する力とよろこびそのものだ。