ホン・サンス「夜の浜辺でひとり」


ホン・サンスという映画作家の私的領域をぐっと作品の中に入れ込んた感じで、奔放で大胆な構成の中に、作家個人の体臭というか息遣い的なものを感じさせる、いわば私小説的というか自伝/日記的な手触りを感じた。作品世界としては今までもっとも過激というかハードコア化したホン・サンス世界という印象を受けたが、過去作を思い返せば意外とそうでもないかもしれない。


全編にわたって、ほとんど夢のようであり、すべてがおさまり悪く居心地も悪い違和感の中、というのはいつもどおりだ。料理のシーンで食材を包丁で切るとか、浜辺に座るとか、同じような出来事があたかもデジャブのように繰り返されている感じもある。(映画の中でデジャブ感というのもすごい…)。夢っぽいというのは、あるとき唐突にはじまり、唐突に途切れてしまうということでもあるが、何を見ても、次へと進んでも、いつまで経っても、あるひとつの世界から抜けられてないような感じがするということでもある。最初のドイツの部分と、次のカンヌンの映画館と、喫茶店と、皆で呑んでるところと、ホテルと、砂浜と、すべてに現実感が無いというか、少なくとも時間的空間的な繋がりが全く希薄である。映画の宣伝媒体に記載されている「物語」を読むと、それなりのお話が書かれているが、しかしあの映画をそのように理解できるか?という感じもある。「月日は流れ…」とか書かれているが、どこで月日が流れていたのか僕にはわからない。むしろ時間の流れはほぼ感じられないという方が実感に近い。


そして本作では、今までのホン・サンス的世界には現れなかったようなある存在が登場する。どうも彼らは、同じ画面に映っていながら、登場人物たちとは違う位相に存在しているような感じなのだが、この、世界の外側にいるかのような存在の気配が何度か示される理由は何だろうか。その存在を主人公をはじめとする登場人物は、あからさまに無視するか、あるいは本当に見えてないという態度を取る。道を尋ねてきた男に対してキム・ミニと先輩はふいに話しかけてきた男に対して、話しかけられたら困るというような態度で無視するし、近付いてきたらさっさとベンチから立ち上がって逃げようとする。あからさまに迷惑そうな態度だが、しかし行動してる方と無視してる方のどちらが「常識的な態度」を取っているのかが、この映画内では判断できないので、観てる方はもやもやとしたままだ。


相変わらずのホン・サンス的世界なのだが、たぶんその世界の内側と外側を感じさせようとしていて、それはつまり映画であることを際立たせようとしているというのか、それが映画監督やスタッフによって作られているということを印象付けようとしているというか、つまり前述したような、それこそ不在の自分がここにいるぞ、という監督自身の息遣いのようなもの、あからさまに画面には映り込まず、物語の後半で実際に登場する映画監督は、いつものホン・サンス的男性のように自分の内面告白をして感情を露にして号泣するのだが、(そしてキム・ミニに詩の本をプレゼントするのだが…)そいつじゃなくてじつは俺はここにいるのだぞ、というような不在としての気配表出…。自分にはそのように感じられた。そして最後の映画スタッフとの会合は結果的に夢だった、というニュアンスがラストで示されるが、それにしても映画スタッフ達と砂浜で焚き火を囲んで缶ビールを飲んでいるときの皆の幸福感は素晴らしくて、ここで、やはり女優として、映画の世界に関わることそのものが嬉しい、というような感覚が表現されているような感じもした。ラストのさっぱりした顔で颯爽と砂浜を歩いていくキム・ミニの姿がとても印象的で、全体を統制可能なロジックはもはや成立してないようにも思えるこの映画に、最後にきてある思いというか、ひとすじの束のようなものがふわっと見えた気がした。