世界の

DVDで「この世界の片隅に」を観る。やはりこの作品も、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、観ているもののどこまでをそう捉えれば良いのかがぼやっとしているのだなあと思う。今、すぐれた物語というのは、多かれ少なかれそれを、確固たる事実としては物語らない。それが登場人物にとって確固たる事実であったとしても、他の誰かにとっては必ずしもそうではないということを片時も忘れない。一つの前提が無条件に共有できる可能性はまるで期待されない。時間をかけて丁寧に語られたとしても、その経緯の地盤は常に揺らいでいるし欠落も多くて頼りない。その物語を成立させている内的な規則性のはたらきは感じられるが、それは誰でも理解できる因果律とは違う何かだ。それゆえ解釈余地はけしてひとつにはならない。むしろひとつにはならないことを、作品を観ることによって確かめるようなものになるのだと思う。


手に入る食材がどんどん貧しくなっていって、雑草や雑穀の調理とか楠公飯やらの場面があるけど、あれはユーモアを感じさせるシーンではあるが、僕ははじめて観たときも今回もそうなのだが、あのシーンを見ると本当に得体の知れない謎の怒りがこみ上げてくる。


やがてすずは、壮絶な体験を経て、この世界を暴力に支配された揺ぎ無い場所と認識し始める。そして、その暴力に屈しないという自尊心を得る。


しかし敗戦して、すずは悔し泣きしながら、最後まで戦うんじゃなかったのかと問う。戦うことができないのかと。それはその条件を満たしてないからか、戦うための土俵に立つことが出来てないのかと。


私の思っていたのと違う、勝った負けたとも違う、この結果は、いったい何なのか?この当てにならなさは。この手応えのなさ、暖簾に腕押しな感じは。身体の中身が全部抜けて無くなるほどの、とてつもなく巨大な期待はずれ。


本作のラストに出現する世界は、大いなる鷹揚さ、ゆるさ、いいかげんさに満ちていて、すべてのけじめも境目もなくなった、ここもそこもない、ゼロの世界とも言えるのかもしれない。すべてが滅んで、すべてが喪失した後に実現した世界で、あらたな可能性としての「取替え子」が起こる。