冷たい世界


信頼性を保証してくれる拠り所はもたないが、しかし疑いようのない事実としか思えないような事の描かれているのが作品というものなのだろう。作品の力とは根拠や外部参照先などなくてもこも世界に事実はいくらでもあるという事を指し示すちからである。作品にふれるというのは冷や水を浴びるような体験である。ほんとうにすぐれた物語だけがもつ冷たさ。物語をものがたらせる動力源がもつ非人間的な冷たさ、その無機質性、それは我々が生きているこの世界の冷たさだ。作品にふれるとは、この冷酷で厳粛な事実にふれるという事なのだろう。


チェーホフの「美女」で、美女に見とれた男性たちはなぜ皆あのような、ある種のもの悲しさを胸にたたえなければならないのか…。それは確かに、そうとしか言いようのない、そうとしか感じ取りようの無い事だからなのだ。私や他の男たちは、たしかに美女を見たはずなのだが、しかしそこで感じたのは美女の美しさだけではなく、その向こう側に透けた背景の、荒涼としたつめたい世界の景色そのものであったかのようなのだ。その事実自体への戸惑いとうろたえ、ある種のもの悲しさ、自分が自分だけでしかない事の泣きたくなるような孤独な哀しみなのだ。


チェーホフの「聖夜」を読んで、その深い余韻に浸りながら、ぼんやりと思い出したのは宮沢賢治の「虔十公園林」であった。虔十とか、平二とか、そういう人々やあらゆる出来事を、歴史の彼方に塵芥のように置き去りにして進んでいく物語の巨大な渦。その荒々しい容赦のないきびしさ、自然の非人間的な冷たい厳粛さ。…この冷たさこそが、虔十という人物がかつて居たのだという事を疑いようのない事実として浮かび上がらせ、イエロニイームやニコライの実在をも疑いようのない事実として感じさせるように思う。そして、それを感じている自分自身のおそろしく頼りない存在感、その孤独さにも、いやおうなく向かい合わざるを得ないのだ。