モツ

煮詰まったモツ煮込みを食いながら、雑に熱くした燗酒を口にしたい、そういう典型的立ち飲み客のおっさん的な欲望は、つねにある。モツ煮込みは、スーパーやコンビニの惣菜では僕にはなぜか全然ダメとしか思えず、スーパーに売ってるモツ系の肉類を自宅で焼くのはすさまじい煙が出て憚られるし、煮込みも時間がかかるし、やはり居酒屋で注文したやつが唯一にしてベストの選択肢なのだ。油でべたべたした店内の汚い椅子に座って、やたら重たいジョッキを傾けて、ひどく粗末なお通しの胡瓜かなんかを楊枝に刺して齧りつつ、そのビールが飲み干される頃にようやく、手で持てないくらい熱くなったお銚子がきて、やがてギトギトに煮えて薄切りのネギの臭いがむっと立ち上るような煮込みもはこばれてくる。ここではじめて引き抜いた割り箸を割ってうつわに突っ込むと、コンニャクとモツが動いてミソと脂がふたたび合わさって湯気がたち、割り箸の先の木の臭いに混ざり合う。寂しさと侘しさがべったり背後に貼りついた独特の美味しさ。雰囲気がいいとかそういうことではなくて、あくまでもその美味しさの話だ。フランス料理だろうが、韓国料理だろうが、日本の居酒屋だろうが、内臓料理には共通した作り手の意志がはるか昔から息づいていて、それは本来ならなかなか食えたものではない食材をどうにかして食えたものにしようとする工夫というか強引さというか飛躍というか、そういった摂取の必要に迫られた生物の、ぎりぎり切羽詰まった際の緊張感がかすかに漂っている感じを、モツ煮込みをはじめとする内臓を取り扱ったある種の料理に感じられるからではないか。さすがに言い過ぎか。