精神0

"仮設の映画館"で配信中の、想田和弘「精神0」(2020年)を観る。このドキュメンタリーに登場する精神科医(山本昌知)は、気高く、高潔で、同じ人間として尊敬の念をおぼえずにはいられない、そのような人物だと僕は思う。そのような人物のように思うとは、どういうことなのか。それはまずこの人物が、自分の仕事をまっとうしているということ、つねに力を尽くしていて、同時に、つねに力を尽くすためには、ふだんからどのように考え、どのように頭と心と身体をうごかせば良いのかを、八十年におよぶ人生の経験において、知り尽くしているかのように見えるからということだと思う。おそらく仕事をする人間の、もっとも完成された形がここにあるという印象を受ける。ひとりの人間がもし、実体を超えたうつくしい何かになれるとしたら、それはこのように仕事をまっとうすることでのみ可能であって、それ以外の如何なる手段によってでも果たせないのではないかと思う。

そんな精神科医がついに引退を決意し、それを知った患者たちに、残り回数もわずかとなった診療を行う。帰宅後、自宅の応接間で、妻とお茶を飲み、夕食をとり、旧友の元へ出掛け、自動車を運転し、先祖の墓参りへ出掛ける。夫と妻、これまでたくさんの人々に囲まれて、忙しい日々を送ってきた精神科医は、作品の後半でとつぜんこの世に自分と妻との二人だけみたいな時間を過ごすことになる。それを二人の、このあと来たるべき時間の静謐さであるとか、穏やかな余生を送る幸福な老夫婦の姿を見ているようには、自分には感じられなくて、老人の住まいに特有のモノの堆積と散らかり方、あらゆる雑事が身体にかける負荷、老体の、一挙手一投足のすべてに掛かる抵抗と困難の感触が、じりじりと伝わる。かといって、そこに過剰な悲壮感や絶望感を見ているわけでもない。すべては、ただ一切ありのままの事実という感じ。荒い息遣い、腰の曲がりかけた二人が、よたよたと危なっかしく、足場の悪い地面を進む、ゆっくりと歩く。その徒労、遅さ、危うさ。老人ということ。それは仕事とか、その崇高とか、象徴的な価値のいっさいから切り離された、何も掴まるところのない空虚のなかに放り出されたかのような、おどろくほど寄る辺のない、ひとりの人間の状態で、それ以上でもそれ以下でもない。老夫婦がしっかりとつないだ手のクローズアップをとらえて、映画は終わる。人間同士が、手に触れた何かに掴まって、お互いを支え合っている状態が、物理のように捉えられている。しかもこれは、終わりをあらわす画面ではない、映画が終わっても、今後も二人の時間は続く。そう簡単に結論を言うような話ではない。このあと二人の時間がまだ続くということに、土壇場でつき放されたかのような感触をおぼえる。