借金

一文の収入もなく、親の遺産もあらかた食いつぶしかけて、下宿を追い出されて、奥さんは妊娠していて、にっちもさっちも行かなくなってる早稲田大生の主人公が、古本屋に借金を請うているところに、恩師の先生の死の報がもたらされた場面。昭和七年のことらしい。当時の尾崎一雄の生活は、相当ひどいことにはなっていたようだが、それにしても今と昔では、どうやら借金というものの意味合いが、まるで違うのではないかと、虚をつかれる思いがする。貸したり借りたりが、まるで半分冗談みたいな、お互いにどこかで芝居してるみたいな、貸せだの返せだのを人並みに応酬したとしても、それは世の中的な作法としてやいやい言い合うということで、誰も根底にある心のところで血眼になるようなことではないと、お互いに思っているというか、いやもちろん血眼だし死人さえ出すのが金の問題であるのは今も昔も変わらないけど、それでもやはり、今と昔は違う。昔のほうが緩かったとか、良かったとか、そういうことともまた違う。ただ違う。感覚的に違うのだろうと思われる。 

「だから、今までのだって何だって、返すときには返すよ。返すけどね、現に今、要るんだ」
「あんたは御入用でしょう。けれどもね尾崎さん、たまにはこっちの身になっても見てもらいたいんですよ。前のがいくらになってるか、わたしゃ覚えていませんがね、それはもう返してもらわなくて結構ですから、もうこの辺でかんべんして頂くわけにはいきませんでしょうか」
 大観堂は、首を真直ぐに挙げ、いくらか紅い顔でいった。それは切口上であり、無理もないが、怒ってることは明白であった。古本あさりの学生二、三が、目は本棚へ、耳は私どもへ、という様子もよく判っていた。私は、大観堂のうしろに膝で立っている細君が、涙っぽい目でおろおろしているのを気の毒と思ったが、大観堂の切口上を聞き流すわけにはいかなかったから、更にふてぶてしい声を出した。
 「今までのは返さなくていい---君、そりゃ随分失敬ないい分だね。借りたものは返すよ、泥棒してでも返すさ」
 「尾崎さん、あなたは本気でそんなことをいうんですか」と大観堂がけしきばんだ。
 「本気ですよ。僕だってね、洒落や道楽で借金に来ているんじゃないのだ」
 私が大声でいったとき、一人の学生が入って来ると、その場の様子などまるで眼中にない調子で、
 「剛さんが死んだよ、おじさん」と大観堂にいい、私に近づくと、「やア」とちょっと面をさげ、「山口さんがなくなりましたよ」と繰り返した。
 「えッ、いつ?」殆ど同時に、大観堂と私がいった。
 「今朝だそうです。学校の掲示板に出ていますよ」
 「へーえ」と大観堂が大息した。私は驚ろきや悲しみではなく、ひどい失望のようなものを感じた。非常にがっかりした感じだった。もう大観堂とのやり合いなぞどうでも好くなり、上り框に腰を下すと、「まさかと思ってた。しまったなあ」と独りごとをいった。
 「尾崎さん、行かなきゃいけないんでしょう」と大観堂がいう。「そうだ、行かなきゃいけない」と無意識に立上ったが、ふと気づいて、「君、ちょっとその袴を貸してくれないか、一時間くらいで帰ってくるから」と学生にいった。独逸文科の、作家志望で同人雑誌などやってるその学生は、「どうぞどうぞ」と調子よく袴を脱いだ。それをいい加減につけて私が出かけようとすると、
 「あ、これ、持ってらっしゃい」と大観堂が紙幣を二、三枚出した。大観堂が苦笑しているので私も苦笑し、その紙幣を袂につっ込むと、私はせかせかと歩き出した。
 
尾崎一雄「山口剛先生」