武蔵野美術大学 美術館・図書館で「若林奮 森のはずれ」へ。会期ぎりぎりに何とか駆け込んだ。
若林奮の作品はうつくしい。でもそれは、作品がうつくしいというより、素材がうつくしいのだと思う。ただし素材のうつくしさが若林奮の作品の在りように対して必須要素なわけではないと思う。かといって、そのことが作品の本質に無関係な要素というわけでもないと思う。自分が惹かれつつ戸惑いもおぼえる、そのうつくしさをもたらすものが何かを考えたとき、そもそも自分は何を見て何にうつくしさを感じているのか、その根拠を見定めたうえで経緯を辿るべきではないかという気がしてくる。
そもそも、作品がうつくしいのではなく、素材がうつくしいとは、いったいどういうことか。作品から切り離されて、素材が要素として切り離せるのか。作品はともかく素材がうつくしいなどということがありうるのか。素材がうつくしいと思うなら、それはすでに作品の中心部の「穴」に、自分が吸い込まれつつあるということではないのか。
観察しようとすればするほど樹木はうすれ、しかも、場合によっては私自身も不明に近付くことになり、自分を意識すれば樹木がわからなくなるという矛盾をくり返すようになる状態に気付いたのである。そこで私は、樹木と私の間のところを検証することにして、観察したものを物質におきかえることにしたのである。[中略]樹と私の間の空間を考えた場合には両方の向き合った側の表面もその空間に含まれることになる。「振動尺」の考え方には最初から表面の厚み、境界、連続と不連続等の考えを含んでいた。
(図録76頁 【白色の振動---若林奮《所有・雰囲気・運動---森のはずれ》をめぐって 勝俣涼】からの孫引き)
若林奮にとって、観察者と対象の関係は、安定したものではなく、おそらくこの作家のすべての制作に、上記の意識は通底しているのだと、とりあえず考えてみても良い。だから若林奮の作品とはまず「観る者と対象との間」が、あのように物質化した結果であると考える。
それはもとより、作家個人の観念にもとづくものである。作家が何を考えどんな観念をもとうが、結実した物質はそのことを直接的にはあらわさない。観念と物質に因果関係は成立しない。ただしその物質は、前述の言葉を媒介することはないにもかかわらず、その言葉を発する意欲の元から生み出されたものではあるだろう。それはたしかに物質だが、他の物質と異なる出自をもつとは言えるだろう。
その作品がうつくしいのではなく、素材がうつくしいと感じた自分が、その時見たのは、素材というよりも表面である。表面を作品ではないと、なぜ思うのか。その物質が、他の物質とは異なる出自をもち、非物質と自らとの境界を律するとき、そこには表面が、働かないわけにはいかない。
物質はものを言わないし、何の意味も伝達しないが、うつくしいことはありうる。作品がうつくしいのではなく、素材がうつくしいと感じた自分は、たぶんそのうつくしさを自律的なものだと感じた。誰が何かの価値判断した結果によらなくとも、これははじめから最後までうつくしいのだから、ほとんど作品のうつくしさとは違う、もっと恒久的なものだと思ったふしがある。
しかしおそらくそれは違う。その物質に、伝達されようもない他人の観念の記憶が、伝達とは別のやり方で含有物のように宿っていて、それがうつくしさと連携している。そのことに反応している。その反応を促す力をもつのは、ものの表面でしかありえない。
それは詩を読んで何かを感じたときの体験に近い。意味合いのレベルとは別層の、不可視な部分で何かを揺るがし思い出させるもの、その喚起作用を見出すことに近い。
これらの作品の、うつくしさの、とりとめなさの、途方もなさがある。また若林奮が残した幾多の文章の、やはりうつくしさの、とりとめなさの、途方もなさがある。それらは連携しているのだが、いっさい相互の意味を補完しようとはしない。それぞれが、それぞれのままで、別個にうつくしいままだ。