記憶

小石川植物園に立っているスズカケノキは、なぜネットやテレビのニュースを気にしないのかと言うと、そこで報道される内容が、自分の生存と関わらないからだ。いやいや、関わるじゃないか、戦争や災害の影響を受けたら、スズカケノキだって生きられない…というのは、浅はかだ。それを言うなら、スズカケノキが昨日、自らの記憶として思い描いたある感情のほうが、よほど明日の我々を、滅ぼしてしまうかもしれないじゃないか。

我々は我々の目で見て、耳で聞くから、我々なのであって、その知覚射程が、我々であることに先行する。射程がそうでなければ、我々がたまたま、スズカケノキであっても良い。

スズカケノキの関心ごとは、木が生まれるもっと前から、我々に与えられているそれではないものを必要と規定されている。そしてスズカケノキにとっての関心、その知覚対象、彼らの気になることは、おそらく我々とは別の射程にちゃんとある。それを我々人間は、スズカケノキの気持ちになって想像してあげるなど愚の骨頂だから、そうは考えないとしても、スズカケノキが昨晩の時事ニュースと別のところに生きているのは間違いない。

ベルクソン的な純粋記憶は、特定の人格ごとに弁別されてなくて、ある共有領域にひたすら沼のように溜まっている。そこから必要に応じて、参照の呼び出しに呼応するかたちで、個々の記憶が物質化する。自分の今のところの理解としては、その沼こそが、逆円錐モデルにおける平面Pである。これは人間すべてが共有する沼であるばかりでなく、動物も植物も微生物も共有すると考えて良いのだろうか。

その沼は記憶をリクエストしてきた参照元の身元を、とくに意識していないのだろう。人間だろうが、微生物だろうが、呼ばれれば返すだけ。各クライアントが判断、自治、生存するための、イマージュの元となる原基を配信するだけ。

我々人間もクライアントだけど、我々が「私は個別的にこの私」と意識できる知覚さえ、その配信情報をもとにしている(一意のアドレスを付与されているようなものか)だから、実際は、私も誰も彼も一緒くたである。たしかに私は、さすがにスズカケノキとは違うのだが、違うというだけで、根本は変わらないのである。違うということを見なければ一緒なのである。