ドアーズ/まぼろしの世界

トム・ディチロ「ドアーズ/まぼろしの世界」(2010年)を観た。ドアーズのドキュメンタリー映画のDVDを買って見たのだが、ああ、そうなのだ、当時のステージってこういう感じだったのだな…と。客席は人で鈴なりになっていて、警官がいっぱいいて、客と警官が入り混じっていて、あちこちで揉め事が起きていて、ステージ上にはバンドのメンバーがいて、メンバーより多い数の警官も立っていて、演奏が始まってすぐ中断して、ジム・モリソンが一言二言何か言って、また演奏が始まって、しばらくしてやはり中断して、警官がばたばたと近づいてきて、はいはい!終わり終わり!もう終わり!この演奏会はこれで打ち切りー!と言って、それを聞いた客が怒って一斉にブーイングが起きて、さらに揉め事が広がって、警官が動き回って、メンバーがだらだらと舞台袖にはけて、ファンとか関係者とか警官とかが入り乱れてグシャグシャ、ただただ溜息というか、演奏と称してこれを連日続けるというのは、相当メンタル強くないと無理、こんな不毛な時間もないわと思わせるに充分な、ほとんど死んだ魚の目で画面を観続けるしかない。でも、これを続けられるということが、若いということだな、この無目的でどっちつかずの、宙ぶらりんな状態を、まあそれでいいかと思えてしまうこと、その驚くべき怠惰さ、寛容さ、けじめのなさ、優柔不断さ。

誰でも気付くように、ドアーズの音楽は一風変わっていて、ロックミュージックのフォーマットからは微妙にずれているとしか言いようのないオルガンとギターとドラムによって構成されているのだが、それでも不定形でほとんど役割を放棄しているかのようなジム・モリソンの姿に、ある定型的な形を与えることには貢献している、というか、演奏がなければドアーズはあっと言う間に音楽の体をなさずにばらばらになってしまうような脆さで成立している。ジム・モリソン以外の三人はステージ上でも比較的落ちついて見えるし、自分の仕事をひたすら全うしているだけに見える。ぐちゃぐちゃに破綻してからも、いつまで演奏を続けていつ中断するかを、お互い目配せしながら推し量ってるようなところもある。たぶんこれでも何かは成り立っていることをメンバーは知っていたのだ。ジム・モリソン本人がすでにそのことへの関心をうしなっていたとしても。