Get Back

TOHOシネマズ日比谷で「ザ・ビートルズ Get Back: ルーフトップ・コンサート」を観た。今日が僕のIMAXサウンド初体験だが、なるほど、これが現時点における最新のビートルズの音ということかと思った。この分離感と立体的な奥行感はすごい。50年以上前の録音が元になってるとは思えない。ビートルズ級に有名な音ならば、今後も時代に応じてその手触りは変わっていくのだなと改めて思った。それにしてもこれまで数えきれないくらい聴いてきた「Let It Be」収録の楽曲が、こうしてやたらと高音質でライブ演奏されているのを観ているのは、妙な違和感があった。

映画は「ウッドストック」みたいに画面の二分割三分割それ以上を多用して、屋上のメンバーと関係者たち、地上や向かいのビルにいる通行人や野次馬、警官などの様子を並行して見せる。大変な事件、今や伝説、そう言われればまさにその通り、しかしこうして見ていると、ふつうにバンドだ、そのようにも見える。道行く人々もおおむね落ち着いてる印象(通行人としてインタビューに応答してる老人を見るたびに、この人は第二次大戦中どこで何してた人だろう…と思う)。演奏中ところどころでポールがニコニコと笑う。1969年1月のロンドン、手が冷えてギターのコードを抑えられないよとジョンが言う。フェンダー・ローズのビリー・プレストンはすばらしい活躍ぶり。苦情を受けて駆けつける警察官は、たぶんビートルズのメンバーたちよりも若いかもしれない、顔立ちに幼さが残ってる感じ。

1969年はビートルズの終わりの始まりだったけど、しかしその最後に見せた創造性は、やはり常人の理解を越えたものだ。これは、そんな一年が始まったばかりの、ある冬の一日だ。本ライブを含む、いわゆる「GetBackセッション」がこの後半ばで頓挫したあと、再びビートルズはスタジオに集まり、アルバム「Abbey Road」を作る。そのことはこの時点では、まだ誰も知らないし想像もつかない事態だっただろう。今の時点から見返してでさえ理解を越える話だ。それにしても69年だなんてジミ・ヘンドリックスもクリームもジャニス・ジョプリンもドアーズもローリング・ストーンズも大活躍中の時期である。アメリカもイギリスもアート・ロックの花が咲き乱れていたはずだ。そういう時代の色合いから、ビートルズだけが別格で、彼らだけが早々と終わりに向かっていく、ぜんぜん時代に沿ってない。

よく言われるように「GetBackセッション」はその意図にバンドの原点回帰的な側面をもっていた。だからこれほどまでにレイドバック感のある楽曲ばかりが集まっているのだ。ビートルズと言えば各メンバーの個人性や嗜好が剥き出しになって一緒くたに並んだ、まるで統一性のない雑食多様な絵巻物のイメージで、その絢爛さや雑多さこそが魅力的なのだとは思うが、どれだけ勝手に思い思いの絵を描こうが、あえて規定のフォーマットに戻ろうと思えば戻れる、この柔軟さと古風さが兼ね備わってるところがロック・ミュージックの面白さだろう。

それにしても、もしこのまま「GetBackセッション」が完遂していたら(つまり「Get Back」をラストとして、つまり「Abbey Road」は作られずに)ビートルズが終わっていたら、それはどんなものだっただろうかという、ありえたかもしれないもう一つの世界を、どうしても想像してしまう。

いや「Get Back」が完成していたら、それはおそらくビートルズの終わりではなく次の方向を示すものにもなりかねない、そんな可能性でもあっただろう。(もしそうなったら、それはそれで「Abbey Road」が生まれる余地はやはりありえなくて、ザ・バンドとかデラニー&ボニーやリトル・フィートみたいな、南部スワンプ系サウンドをさらに推し進めた70年代"ファンキー"ビートルズが、次作の準備に取り掛かりはじめる…そんな荒唐無稽な想像をするのも、個人の頭の中だけなら許されるだろうか…。とはいえこれらの演奏にそんな大きな成長を予感させる萌芽の気配があるのか?と言われたら、それはちょっとそうではないのかもしれないが。これらの演奏の楽しさは、そういう緊張をともなう期待感とはやはり少し違った何かではあるだろうが。)

ちなみに帰宅してからAppleMusicで聴き返してみたら「Let It Be」の2021年リマスター版の音は今回のルーフトップ・コンサートの録音と同じような感触、というかまるで差し替えられたみたいな印象だ。「Let It Be Naked」は以前の通り。ライブ感はあまりなくこれまで聞き親しんだ感触のままだ。