悪事

先週図書館で借りたフィッツ=ジェイムズ オブライエン「ダイヤモンドのレンズ」を半分くらいまで読んだところで、その物語の推移とはあまり関係のない妄想が広がって、不思議な興奮を感じた。主人公に殺されるシモンは、かつてブラジルでダイヤモンドの洗鉱をする奴隷の監督をしていた。あるとき奴隷がダイヤモンド盗み土に埋めて隠したのを見て、そのダイヤを掘り出して逃げた。そのとき、僕が突然思い浮べた妄想はこうだ。

上野駅に停車した山手線内で、怪しげな男が、泥酔して眠っている乗客に近づいてくる。男は客の隣に座ると、素早い手つきで彼のジャケットの内側に手を入れて財布を抜き取る。それを僕はたまたま目撃してしまう。男は電車を降りて、駅構内を足早に移動してトイレに向かう。僕はそれとなくその男の後をつける。男は個室に入り、現金だけを財布から抜き出してポケットにしまい、しばらくなった後、洗浄ボタンを押して水を流し個室を出る。手洗い脇のゴミ箱に財布を捨て、速やかに立ち去る。僕はその男とすれ違いの恰好でトイレに向かう。辺りを見回し、すぐゴミ箱の中から財布を拾い上げて中身を確認する。クレジットカード、銀行のキャッシュカード、運転免許証、スーパーだか薬局だかのポイントカード、その他よくわからないカード類がいろいろ入ってる。

この状態から、何らかの手段で、見事に大金をせしめて、しかも自分の行為の痕跡を消せないものだろうかと思って、たとえばこのキャッシュカードの適当な四桁の暗証番号を当てて、可能額いっぱいまで引き出して、そのカードの入った財布ごとそのまま、盗まれた被害者ではなく加害者の男のかばんの中に戻すことができれば良いのだが、それにはどうしたら良いのか、それは不可能だと一瞬であきらめる、一瞬で考えるモチベーションが失われる。

仮にそれが「出来る!行ける!」そう思える素晴らしいアイデアが頭に浮かんだとしても、絶対にそれを実行している自分を見るもう一人の自分が、いつもの彼が彼を、まともに操ることのできない状態にして、下手くそなラジコン操縦みたいになって、想像と現実の幅が大きく広がって、やっても無駄、どうせ失敗するとの声が頭の中を何度も反復する。ぼくは絶対に悪事を為せないと思うのは、いつもそれがあるからだ。悪事は、想像と実際の幅を徹底的に狭めて、なるべくぴったり合わせることのできる力なわけで、そういう能力がそもそもない。

一度目のプランに失敗して、それを反省し、問題を是正して、さらに二度目のプランを立案しそれへのチャレンジに向かう、そんなことが本当に可能とは思えない。やはり最初のプランと次のプランは、無関係と考えるべきではないか。一つの取り組みが、少しずつ修正可能だなんて、幻想ではないか。最初のプランが上手く行かないなら、最初のプランはなかったことにしないと、悪事は成り立たない。成就した悪事は、常に一回限りの成功例なのだ。その成功に、きちんとした理由などないのだ。成功はそれ単体でしか成り立たないもので、後付けされたすべての原因説明を拒むものだ。失敗が無残なのは、それ単体でい続けるのが難しいからだ。原因と称する、どうしたって見た目のあまりよろしくない時系列の帯がぶら下がるのを拒むことができない。