かつて

あのときの鳥と今ここにいる鳥は、果して同じ鳥だろうか、そのように思うことは多い。動物園にいるなら当然同じ鳥だろうけど、ふだんその辺を飛んでるサギだのヒヨドリだのは、去年や一昨年、まして十年くらい前に見たやつと同一の個体かどうかは、さすがにわからない。

けれども、十年前に見た鳥は、そのあといつかどこかで死んだとしても、またふたたび目の前にあらわれた同じに見える鳥ならば、それは僕にとって同じ鳥ではないのか。それを、あのときの鳥の再来と思っていいのではないか。十年前に僕がその姿を見上げていたということを鳥はおぼえていて記憶に保管していたからこそ、それが個体を越えて今こうして僕の目のまえにあらわれたのではないか。とくに根拠はないが、そういう仮説を打ち出すことは可能ではないか。

記憶というのが、現在のようにある時系列的な流れをともなったものとしてしか我々が認識できないから、死というものも不気味なブラックホールのようなものになってしまうのではないか。じつはもう少し分散的というか、個体の枠内ではなくてもっと広くはみ出して広がるような、別々の記憶が任意に離れたりくっついたりしながら、水が飛び散るような具合に、記憶はばらばらに飛散するのではないか。死んだ鳥の記憶は個体を越えて伝播し、かたちを変えて他の個体が受け継ぐ。そのことを時系列型記憶で強く念じても、直接の呼応関係を取り結ぶことはないが、その元となった相手から呼び寄せられはするのじゃないか。

十年前のサギのなかに、サギの見た十年前の自分の断片が保存されている、それを今、目の前のサギが運んできたから、それは僕の目の前で十年前のサギになった。

ふだんの日常生活の中において不思議に思える出来事は、決して少なくない。