苦しみ

先日観た「淵に立つ」(2016年)について、いくつかのことを思い返していた。(以下ネタバレ)

ある男と、そしてお互いに対して、夫と妻がそれぞれの負い目や引け目を心に隠し持っている。夫は過去に男が犯した殺人の共犯者だったが、男がそれを黙っていたため罪に問われなかった。妻は、男に惹かれて不貞の関係をもちかけた経緯がある。

夫婦が駆け付けた公園で、娘は頭から大量に出血して倒れていた。男は娘の傍に佇んでいたが、やがて姿を消した。

そのときの怪我が元で、娘は重い障害を背負うことになる。男は消息を絶つ。そして八年が経過する。

男は、おそらく娘に直接の危害を加えたわけではない。映画は直接そのシーンをとらえてないし、傷害などの容疑で警察捜査が実施された様子もないし、たった八年しか経過してないのに夫は私費で興信所に依頼して男の行方を捜しているのだから、その男が容疑をかけられ指名手配を受けるような状況ではないと推測される。しかし、ならば実際そのときに何が起こったのか、映画は最後までそれをあきらかにしない。

さらに、物語の後半で夫婦の前にあらわれるのは、消えた男の息子にあたる人物だ。しかし息子は父親に会ったことが一度もなく、男と夫婦の間に何があったのかも勿論知らない。八年前に父が働いていたという場所を訪ねてきただけだ。

男の息子は、あまり現実的な感じがしないとまで言うと言い過ぎだけど、しかし彼はまるで、この夫婦の苦しみを写し出す鏡のような存在としてあらわれるかのようだ。

探し続けたあの男かもしれないという興信所からの情報を得て、夫婦は娘と、それに男の息子も連れて、示された場所へ向かう。妻は男の息子に、あなたをここに連れてきた理由は、もしあの男が見つかったら、男の目の前であなたを殺すためだと言う。息子はそれを聞いて、いいですよ、と答える。

彼らは最終的に、その男との再会どころか、その男であるか否かの確認さえ拒むように、足早にその場を立ち去る。

最後の場面では、彼ら夫婦にさらなる苦しみの日々が続くことが示唆されているかのようでもある。蘇生しているのは、夫の他には妻だけのようだ。息子と、障害者の娘は、二人とも反応が見えない。すでにこときれているようにも見えるが、そうではないかもしれない。詳細は不明だ。不明なままで、息のある者の息遣いの音が続くだけで、断ち切られるように映画は終わる。

息子が、夫婦の姿を別側面から映し出すための便宜的な鏡のようにしてあらわれたのと同様、そもそも父とされる男をも現実的存在に見なさない、その考え方もできるかもしれない。そう思った方が、腑に落ちるところもある。ある夫婦の、見たくなかったものを少しずつでも見ようとすることで、ますます安息からは遠のき、痛みと苦しみが増す。しかしなぜか、それが二人に課せられていて、二人は、結局はすべてを見ることになる、その努力を自らをもって強いられている。。

夫と妻が、物語の中盤でお互いの罪を認め合ったとき、彼らは「共犯者」の意識さえ、もつことができなかったように見えた。「共犯者」であることは、少しでも目をそらすことに繋がるだろうか。だとしたら今後、それがかなう可能性はある。しかし、それは安息だろうか?いずれにせよ事態はもはや、ほとんど正気を保つことも困難なほどの、あまりにも過酷で絶望的なものだ。共犯者としての生を生きるのか、いまの苦しみを個別に受容し続けるか、二人がその岐路(淵?)に立っている。