よった


 よった。夕方から飲んでるので、いまはもう、よっている。だからもう書こう。

 イイと思う段階にも何段階かあって、しかし自己内にてそれを評価しているとその基準自体ゆるく変わっていく。評価行為によってその基準自体が滑らかになめされていく。あるいは、採点回数が増えて、評価がまるめられれていく。あったはずの閾値が、いつのまにか低くなる。一瞬だけ、自分が成長したのかと錯覚する。いずれにせよその時点で、当初の評価の場が崩れる。というのはつまり、そのときいた人や、その場や、そのときの宴席や、料理が、なかったことになって、結果だけでしかない。しまいには、評価が評価しているような、自動的なことになる。この脆弱さが、親の代から、常に問題にされてきたことなのだ。自治会の弱さ。組織の脆弱さだ。このだらしなさ。親もダメなら、子もダメ。その繰り返しだ。寺の息子が今、タクシー会社の社長をやってる。今の世代で何ができるのか。人数分のお茶のペットボトルを運ぶ。

 天気と云うよりは光が出しっ放しになっている感じ。いまのこの季節ね。光りがすごい。この通りの向かう先の向こう全部が、すごい光り。道路全部が光ってる。かがみみたいになって、すごいひかって、ひかりに向かって歩いて、見えないのにそっちの方向にずーっと歩くだけ。店の先が全然見えなくて、勘で歩く。硬い表面。光って何も見えない。跳ね返る張力。氷面のような光。張力。セザンヌを拒むほどの。

 でも、あの人らも、そのあとの日本をみとどけたから満足なんじゃないかね。思ってたほどやなやつじゃなかったと思うけど。だったらどうなの、

「そこは誰からもわからない。」
「それはそう。」
「誰からもわからん、ああしてこころざしでね。」
「ああしてああなって、それはだからね。」
「今のこの、みなさんの、今こうしておれて良かったっていうね。」
「そのことをまずは感謝よね。それで、そこからよね。」
「この出汁がね。これはしかし、ありえないね。これがなりたつということがね。」
「これがだから、京都なのですかね。」
「あとはまあ、間をもたせるには何かと言うと」
「で、まずはCan't Get Enough (SoulPhiction RMX)にしましょうかね。」
「このあと、お吸い物がでますからね。」
「つまりはこれが、まだこのあとも終りではないという意味だね」