奇妙な仕事

図書館で借りた大江健三郎自選短編より「奇妙な仕事」をいつ以来だかおぼえてないほど久々に読む。主な登場人物は、主人公の学生と、同じアルバイトに応募した院生と、女学生と、依頼主と、犬殺しの男だ。その仕事とは、大学に飼育されている実験用の犬百五十匹を殺処分すること。犬殺しは、繋がれた犬の傍になにげなく近付いて、さっと棒を振りおろして殺す。主人公の学生から見て、その行為は「息がつまるほど卑劣なやりかた」で、しかしその機能的ですばやく行動化された卑劣さは「すでに非難されるべきではないと思われた」。そのような境地にまで達している仕事だったということだ。それは、長年の経験によって高い技術に支えられ、きわめて洗練されている。残虐さ、卑劣さも「仕事」のうちだ。それが人間の扱う、ひとまとまりの営みになるならば、何であっても仕事になる。仕事とはそういうことで、それこそ、爆弾を落とすことだって強制収容所の管理職だって仕事だ。8月6日の広島の惨状を「これは精密巧緻な方法で実現された新地獄」と表現した原民喜は、それが人間の仕事の成果であることを正確に見抜いている。

仕事というものの両義性、それを仕事だと位置付けたならば、いかなる行為であれ、それを継続することで、その結果がどうであれ、仕事をする者はそれに支えられ、それを自分の拠り所と考えてしまえる。どれほど卑劣な行為であっても、それを善行とみなすことさえ可能となる。

犬殺しの男が彼の内側にいだいている倫理の一筋縄では行かなさ。「俺は毒は使わない。毒で犬を殺す間、日陰でお茶を飲んでいるようなことを俺はしたくない。犬を殺す以上は、犬の前に棒をもって立ちふさがらなくちゃ本当でないだろう。俺は子供のころからこの棒でやってきたんだ。犬を殺すのに毒を使うような汚いまねはできない。」

それだけでなく計百五十匹の実験用犬を計三日間かけて撲殺し、皮を剥ぎ、死体を処分する計画を進めていくにあたり、翌日以降に始末が予定されている犬たちの、さしあたり今夜の餌を、管理施設側にその用意がないことが判明したとき、犬殺しの男は「飢えさせておくのか?」と強く抗議したりもする。「今日はせいぜい五十匹しか殺さないんだ、後の百匹を飢えさせておくのか。そんな残酷なことはできないよ。」

そこに真逆の発想を感情にまかせて口走るのが院生だ。「よせ、そんな残酷なことはよせ。」「明後日までにはぜんぶ殺してしまうんだろう?それに餌をやって手なずけるなんて卑劣で恥知らずだ。僕はすぐに撲り殺される犬が、尾を振りながら残飯を食べることを考えるとやりきれないんだ。」

卑劣さの内面化と制度化、それに完全に成功していて、それで生活を支えている犬殺しの男に対して、院生の抗議はあまりにも無力というか的外れなものだ。院生の言い分はきわめて独善的であり、自らの手を汚すことに対する忌避の感覚があり、その卑小さ臆病さが際立つようなかたちで、彼は登場人物として造形されている。

犬殺しと院生との衝突は決定的にズレてしまっていて、彼らはそれぞれ自分の立場から言い分を喚くだけで、決して一つの問題を共有することはない。犬殺しの男を本質的に批判できる視点をもつ者は、最後までこの小説内に出てこないし、この小説の中で犬殺しだけが、地に根を生やして生きているような、いわば「正気の者」に感じられる。あとの人物は、主人公を含めて強い虚無と無気力に支配されているだけだから、よけいにそれが際立つ。

「奇妙な仕事」を書いた大江健三郎はやがて、この小説を全面的に書き直す、それが「死者の奢り」である。「奇妙な仕事」と「死者の奢り」を続けて読んでみると、書き手が「奇妙な仕事」の何に不足を感じ、何を補強しようとしたのか、それがひじょうに活き活きとリアルタイム感覚で刻まれているかのようで、この二つを通して読むこと自体が、とても面白い。