死者の奢り

大江健三郎が「奇妙な仕事」を書き直すにあたり、頭の中にいくつものエスキースを思い浮かべているときに、もしかして、河原温の「浴室」シリーズの作品イメージが、その頭のなかに思い起こされはしなかっただろうか。あるいはそこから、いくつものエスキースを思い浮かべることになる際のきっかけ、ある気づきや予兆のようなものの気づきとして、それを意識したことはなかったのだろうか。

もちろんこれは僕の勝手な妄想に過ぎない。河原温がはじめて「浴室」シリーズを発表したのは1953年、東京都美術館においてである。大江健三郎が上京したのも同年で、「奇妙な仕事」が東京大学新聞に掲載されたのは1957年で、時制的にありえないということは無いにせよ、きっとそうだと言い張る根拠もない。

その時点で大江が「浴室」シリーズを知っていたかそうでなかったか、それはわからないが、それをつい考えたくなるほど、「浴室」シリーズのイメージが僕には「死者の奢り」がはなつ感触と、似ているように感じられる。もしかして五十年代という時代が、このような共通感覚を呼び起こすもので、両作家が互いを知る知らないにかかわらず、そのようなイメージを召喚してしまうものだっただろうかとも思う。

「死者の奢り」と「奇妙な仕事」との大きな違いは、登場人物の扱う対象が、殺される犬からアルコール漬けの死体群へと変わったことだ。「奇妙な仕事」で主人公は犬たちと見つめ合い、架空の対話を交わしてもいたが、「死者の奢り」の主人公の「僕」は、死体一つ一つの特長を見、やはり彼らと架空の対話を交わす、その内容は生者らとのそれより親密で深い。

死体は、生きる者にとって一方的な立場から遠慮なしに見下ろしてそれにまつわるあれこれを想像できる対象だが、しかし同時に、死体が遠慮なくこちらへと語りかけてもくる。「奇妙な仕事」の登場人物たちにとって「犬」は、恣意的に気分や感覚を代入できる入れ物のようなものに過ぎなかった、そのようなモチーフとして扱われていたのだが、しかし「死者の奢り」の死体はそうではない。死体が、ゾンビ映画のようなものとは違ったかたちで、はっきりとした「人格」というか「存在感」を与えられている。それが「死者の奢り」の、前作にはない大きな特徴だと思う。「死者の奢り」の死体たちのうち幾人かは、登場人物のひとりとみなしたほうが良いほど、その役割を担っている感じがする。元兵隊の死体や、性器をあらわにした少女の死体など、ほとんど登場人物たちの誰よりも、彼らは活き活きと存在を主張し誇示しているかのようだ。

(生者の)主な登場人物は、主人公と女子学生と、死体処理室の管理人である。さらに脇役として、助教授とか学生とか雑役夫とか看護婦とかも出てきて、メイン登場人物たちあるいは脇役らとのそれぞれにもつ属性の違いが、都度ごとに対立軸や何かの線を浮かび上がらせもするけど、そういった立場的なものが前作ほど大きなテーマにはされていない。死体処理室の管理人は戦前から数十年にもわたってその仕事に従事してきた。死体処理場の保全において、それだけの経験と知識をもっているはずの人物である。彼は「奇妙な仕事」の犬殺しと同じく、仕事を続けてきたことの安定・保全を表象する。しかし事態によっては、それが崩れ去るのを受け入れるほかない立場でもある。これは前作と同じ構図が踏襲されている。

主人公たちが共有するある気怠さ、モチベーションの枯渇、深い空虚感も「奇妙な仕事」と同様だ。それは女子学生も同じなのだが、肌の色つやがきわめて悪い彼女は、妊娠しており中絶手術のための資金を得るためにこの仕事に参加している。そして彼女は自分の体内にある別の何かと目の前の死体たちを見比べることで、ある気づきを得ることになるだろう。

しかし彼ら彼女らの違いあるいは相違のなさ、それらを丸ごと凌駕するように、死体たちが彼らの個性をもって、生者たちの境界に侵犯してくるかのようだ(と、少なくとも主人公はそう感じているように思われる)。

女子学生は物語の終盤にて、ある心変わりをし、死体を経過したことで自らの内に宿した生命に対し方針転換をほのめかしもする、そのくらいの影響を、死者は生者に対して与え得たようだ。とはいえ本作においてはそういった生者側の問題が重要なのではなく、この小説を体験するとは、目のまえの水槽にいくつも浮かぶ死体たちを、棒で引っ掛けてこちらに引っ張れば、すーっとその個体が、ゆっくりと傾きながらこちらに近づいてきて、その姿勢を変えないまま、荷台に乗せられ、じっとその作業のなされるがままであること、それがひたすらくりかえされることの実感の方に、強くあるのだろう。管理人は死体を「手荒にあつかうな」と言う。主人公はその言葉にかすかなユーモアを感じるが、それはユーモアとして共有されはしない。この行き着かなさ、この未解決感のまま、ただ死体のモノ感だけがひたひたと迫ってくる。この小説が目指しているのはほとんどそれだけだろうと思う。

「奇妙な仕事」の下地だけは残して、上に乗ったものをあらかた削り取って、水槽内にある死体の整理業務というメインモチーフをしっかりと据えて、そこから不足を書き加えたのではなくて、ある調整されたトーンで整理し、必要のなかった要素を大胆に削った、好ましいベースの上でより各要素を活かせるように案配した、ということだろうと思う。