街の上で

日本映画専門チャンネル今泉力哉「街の上で」(2021年)を観る。彼氏彼女の関係、別れる、よりを戻す、あるいは友人、ちょっとした協力関係、といった関係というよりも各登場人物たちの契約状態というかカテゴリ分けの変遷みたいな過程の絡まり合いを、まるで盤上を転がるボールのぶつかり合いや壁の跳ね返りの偶然性を見ているかのように、ある抽象化された運動のように見せるという、今泉作品が得意とする手法とセオリーが本作でも踏襲された印象で、面白いとは思ったが、なぜか、どうにも釈然としないような、かつて「パンとバスと2度目のハツコイ」や「知らない、ふたり」を観たときの、強い驚きをもたらしてくれたあの感じに本作は至ってない気がして、それがなぜなのかは、自分にもわからない。自分の観方や感じ方が変わってしまったのかもしれないが、たとえば若葉竜也と古本屋の古川琴音とのいざこざやその後の仲直りのエピソードとか、若葉竜也と中田青渚のとりとめなく未明まで続く会話(恋バナ)が、なぜかあまり面白い時間には感じられなくて、うーんなぜだろうと思いながら観ていた。最後に各登場人物らが集合するところもまさに今泉作品的展開だとは思うのだが、立場的ジレンマで笑わせるコントっぽさを今回は強く感じてしまった。

しかし主人公から見た各女性たちの掴みどころのなさ、一度は怒りを見せ、その後で気を取り直すときの不思議な不可解さ、恋愛とも友情とも違うような、ゆるく結ばれる連帯感の面白さは面白かった。主人公は最初から彼女への執着が一貫していて、他に気が移らないので、複数女性に翻弄される男性一人という、お約束型のようでもあるのだけど微妙にそうでもないというところも、面白いと思った。集団恋愛ドラマにおける、すごくモテる人と全然モテない人の役割があって、それはトランプゲームの「大富豪」のように、強いヤツはなかなか陥落しないし弱いヤツはなかなか上がれないのだけど、本作では誰が強くて誰が弱いのかが明確に決められない、従来の「大富豪」はすでに怪しくて、そんな単純なルールはもはや成立しなくなってるという感じでもある。