買い物がてら、近所を散歩しながら、ぼーっと道行く人々を眺めていて、若い人も、子供も、老人も、男も女も、歩く人も自転車も自動車も、すれちがった様々な人々が、それを含めた何もかもが、もしかして全部自分だとしたらどうだろうか、と思った。自分と彼らは、ぜんぶ自分。今この私はそう考えているけど、すれ違ったあの人はそう考えていないだろう、しかし、それも含めてぜんぶ自分なのだ。そう考えた自分とそう考えていない自分、というだけなのだ。

 

今、一応は健康なはずの、妻と二人で歩いている自分と、通りの反対側で、たぶん歩行困難で奥さんに車椅子を押されて桜を見上げているお爺さんとしての自分がいる。その身体も、今この自分と通りの反対側にいるお爺さんとで分かち合ってるだけで、異なるコンディションが二様にあらわれているだけで、それはこことそこではない。今このフォーマットで考えている自分と、車いすのお爺さんのフォーマットで考えているお爺さんとしての自分、としてのお爺さん。

 

それは誰かに対する私の共感とか感情移入ではない。そうではなくて、はじめからどうしようもなく自分で、この世界全体がもともと自分で、それが状態に応じて分割され、自分とそれ以外になってるだけみたいな感じだ。車椅子で老人の私と四十八歳の私、金持ちな私と貧乏な私、マスクを買えた私と買えなかった私、もっと極端に言えば、私は誰かを殺さないけど、誰かは私を殺すかもしれなくて、しかしそれはそう思わなかった私とそう思った私がたまたま出会ったことの結果にすぎない。だから殺された私は死ぬが、殺した私は生きている。私は死んでしまったり、生きていたりする。しかし全体的には、少しずつ回復・向上していこうとする力の働きがある。その折れ線グラフはわずかな推移ながらひたすら右肩上がりで時間を上る。あるいはある時が来ると時間の歩みを止める。

 

既存の私は死んでしまっても問題ないみたいな話ではなく、というかいずれ死んでしまうこの私のとらえ方として、その方がじつは理にかなっているような気もするよねという話。理にかなうという感覚をなぜ大事に思うのかは、また別の話になるのだろうが。