ひかげの花

永井荷風「ひかげの花」(1934年)を読む。私娼と、そのヒモ。おそらくこの二人にも贈与交換の関係は成り立っている。それは共働きの夫婦や、男は仕事で女は家の夫婦が、それぞれの関係において成り立たせているものと、根本的には違わないはずだ。

問題は所得や労働バランスではなくて、法や社会規範や道徳や倫理とされるものにもなく、いまこの二人であること自体がいかに成り立つのか、それを互いに不断に測りながらも、今、暫定的に生じている間隔を等しく感じることができていると、それを想像した相手の立場において信じられるか(つまり幻想が可能か)にあるだろう。

女は自分が私娼になってしまったことを男に対して後ろめたいと感じている。男は女を私娼にまで落とし詰めてそれを是とする自身をなさけなく思い、女に対してすまないと思っている。そんな二人がお互いの内心を確認し合い、女は男に許され認められたことが嬉しく、男は女の自尊心を傷つけずに喜びと感謝を伝えられたことが嬉しい。互いに信頼があり、互いに打算があって、その上で均衡している。ここに描かれているのはほぼ均衡だけだ。

とはいえ、これは人間の関係が良好なものとして継続する理由の説明にはなってないだろう。関係が良好である理由を、因果や摂理として説明することは出来ないはずで、その良好さとは説明できる対象ではなく表現される対象だと考えたほうがいい。この小説を読んで感じさせるのは、まずそれだ。

私娼とそのヒモ。実際この二人の関係はどうなんだろう?と思いながら読み進んでいくのだが、その思いが一挙に書き換わるのは中盤、警察の手入れが入ってからの、めまぐるしいようなスピード感あふれた展開の中に描かれる二人の行動と台詞の応酬によってだ。本作は全編、とにかく会話の魅力がすばらしいのだが、ことに緊迫感あふれた場面になって、はじめて二人の圧倒的な相性の良さ、鉄壁のチームワークのようなものが露呈する感があり、まるで最上質の犯罪小説を読んでいるかのようなスリルと高揚感に満ちている。この緩急を自在にあやつって事態を描き出していく力に、作家の能力が剥き出しになってる感じがする。