もう十年以上前だけど、真夜中の新木場のクラブの広いフロアで、深夜二時くらいだったと思うけど、はっきりゲイのカップルとわかる二人が、ぐっと近くで互いに向かい合って、もうこれ以上の幸せはありえないというくらいの、最高の笑顔を向け合って、身体全体からよろこびをほとばしらせるかのように、むちゃくちゃ楽しそうに踊っている姿がふっと視界に入ってきて、それがすごく印象的だったので踊り続ける二人をしばらく見ていた。今思い返しても二人のことが、とても鮮やかに記憶によみがえってくる。たぶん十年かけてかなり美化された記憶になってしまっているとは思うが、あの二人のことを思い出すたびに、いまだにかすかな幸福感が沸くというか、よろこびと切ない悲しみのようなもののないまぜになった感情が満ちてくる。
昨日観た「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」でエマ・ストーンが美容師の女性に魅了されていく場面で、その二人のことをまた思い出したりもした。僕がヘテロ男性だからかもしれないが、ゲイやレズビアンの恋愛というのが、僕にとってある意味とても魅力的に見えてしまうのはなぜかと言ったら、それはやはり彼ら彼女らが、自らの気持ちを互いに認めながら、自分たちと自分以外の世界を、何にも頼ることなく、まったくのゼロから作り上げているように見えるからだろうと思う。この想像は、男と女の恋愛を見てもそれと同様に感じることが、もはやきわめて困難だろうという思いとセットになってある。
男と女がそのまま恋愛することはおそらくもう無理なのだ。それは恋愛のようでいて実際は制度でしかない。それは神社にお参りするようなことと変わらない。儀式であり決まりに過ぎない。そのことを認めないわけにはいかない。だったら、ゲイやレズビアンだってそうではないか?同じことではないか?そうかもしれないが、しかしまだ彼ら彼女らの方が、世界に対してよりクリエイティブでいることを求められるだろうし、自らもそうであろうとするだろう。闘争を続ける気概を失わないと同時に、あたらしいものに触れるよろこびのアンテナを最大限にすることにも躊躇がないだろうと思う。それが、ひたすら羨ましい、いや羨ましい以前に、とても眩しくて、ずっとあこがれの思いで見ていたくなる。単なる勝手な空想で、隣の芝生を青く見たいだけなのだろうか。
来る老年を忌避したいのは、俺様の欲求がかなわないままであることに耐えられないということで、それに不服があるのはいかにも愚鈍なノンケ男性の態度なのだろうか。それとも非ノンケ的ナルシズムの裏返ったものなのだろうか。