光りの墓

シアター・イメージフォーラムアピチャッポン・ウィーラセタクン「光りの墓」(2016年)を観る。昨日観た「ブンミおじさんの森」では、ブンミさんの声と話し方のなめらかさが、とても印象に残った。余命いくばくもない老人の感じがあまりしない。とても艶のあるいい声で、なめらかに話す。まだずいぶん元気そうじゃないかと思ったし、雰囲気や話し方はぜんぜん違うのだけど、どことなく渥美清の喋りのリズム感を思い起こさせる何かがあった気がした…。

それは「光りの墓」でも、同じように思った。もしかするとタイ人の男性は、みんないい声で、あのようななめらかさで話をするのだろうか。

仮設の病院のベッドで、昏々と眠り続ける男たちの様子と、それを見守る人たちの映画で、眠り続ける男たちの眠る姿は、これ以上に快適で気持ちのいい状態はないんじゃないかと思うくらい、彼らは気持ちよさそうに眠り続けている(寝たきりというのは現実にはもっと大変で様々な困難があると思うけど、この作品で眠る患者たちについては、そういうことではない)。真っ直ぐに身体を横たえて、まるで棺桶に横たわるかのように、男性の横臥した状態が、静かに捉えられている。寝言もなく、表情も変えず、呼吸も乱れない。静かな呼吸音が、胸をかすかに上下させるだけだ。鉄柱に点滴袋が吊られていて、ベッド脚には排泄物を溜める袋がぶら下っている。まるで植物のように、点滴を受入れ尿を排出しながら、ただ眠り続ける、この魅惑的な、安寧の感じ、どこまでも深く静かに眠りの底へ引きずられるような誘惑感は、ほとんどそのまま死んでしまってもいい、死んだらこれほど快適、といった想像を呼び起こす。彼らの誰もが、その病気から本気で快復したいとは望んでいないのじゃないか。このままで良いとも思ってないだろうけど、彼らは今この現状に対して、とくに何らかの意見をもってないようだ。ただ眠っていて時折目覚めるのだ。そして、食事に行ったり映画を観に行ったりもする。そして、目覚めて話をするときの男たちが、やはりとてもいい声で、とても落ち着いた心情を想像させる表情と話し方で言葉を発する。微笑みをたたえながら、やわらかく話をする。そのために目覚めて、ひとしきり振る舞った後、また再び眠りに戻っていく。許されるかぎり、それだけをくりかえしているようなのだ。

彼を気に掛けている主人公の女性と、彼の言葉を代弁できるイタコみたいな女性、彼女らのいるこの世界、それは我々の世界でもある。彼らがなぜ眠り続けているのか、この病院が建つ下の地面にまつわる話や、生者と死者、過去と現在の、不思議な混線の状況はいったい何なのか、それらに明確な結論はあたえられず、しかし我々の世界は、彼らのいる場所ほど快適ではないようでもあるし、しかしこうしてたまに目覚めた彼と一緒に歩くこともできるなら、今後もそのように彼らと付き合っていけるならば、それはそれで良いのかもしれないとも思う。

最後の場面、子供たちが砂を積まれたデコボコの地面でのサッカー(このシーン最高)。それを、言われた通り大きく目を見開いて見ている主人公の女性。見えるようになるために、教えられた方法が出来るかを試している。