川沿いのホテル

ホン・サンス「川沿いのホテル」(2018年)。つまり、老人が亡くなる話ではある。ホテル滞在中の老人が、息子二人を呼びつける。ホテル近くまで来た二人は、部屋まで行くので部屋番号を教えてくれと言うが、父親は、いや、一階のロビーで会おうと、かたくなに部屋番号を教えない。訝しく思うが、息子たちはロビーのカフェで待つ。老人はベッドに腰掛けて、靴下を履き、上着を着て、帽子をかぶり、外出の恰好をする。

この一連の場面観ていたら、亡くなった父親が生々しく思い出された。身内を呼ぶくせに、近寄られるのは拒む感じ、いそいそと着替えて外出の準備をする感じ、たまたま出会った若い女性とかには親し気な態度で外面をととのえる感じ…と。父親を哀れで孤独なものに思うのは、つまりそこに未来の自分を見るから、というわけでもないが、どちらとも、なんとも言えない…が、まあ老人の男とは、父親とは、こんなものだよなあと、つくづく思う。

モノクロ映画なので、外にいると画面のほとんどすべてが真っ白で、二人の黒い影が、ぽつんとある。ホン・サンスの映画に映り込んでいる季節はいつもうつくしい。冬なら冬の空気と風、外と室内の温度差、衣類の感触、夜の寒さ、そういうのがはっきりと身に伝わってくるようだ。ああこれは、冬の映画だったと、それを知ってまずは嬉しくなる。

老人、その息子二人、そして同じホテルにいる女二人。老人は息子と会って話をする。女達と楽しそうに話をし、自分の詩作品を朗読する。老人はそれなりに名の知られた詩人らしい。息子の一人も、それなりに名の知られた映画監督らしい。

キム・ミニと、先輩の女性(ソン・ソンミ)。この二人の親密さ。キム・ミニは失恋の傷心を癒すためにホテルに滞在していて、先輩は彼女をなぐさめるのだが、それは先輩と後輩の関係よりも、より親密な気配があり、おそらく互いに惹かれ合うものを感じていて、そのことに照れ隠しの笑いを浮かべながらも、寄り添い合ってベッドに横たわっている。

で、これは老人が亡くなる映画であるのだが、しかし本作も、それ以外のホン・サンスの作品すべてに共通して言えることでもあるけど、今見ているもの、あるいはこれまで見てきたものすべてが、じつはそうではなかった、じつは誰かの想像かもしれなかった、じつは起こりうる可能性のひとつにすぎないのかもしれなかった、そんな気配が、少なからず漂っているとも言える。この映画を観たことの記憶は、この映画の場面ひとつひとつが示しているのかもしれないいくつもの可能性を、ただ思い浮かべることで費やされる。

老人の男性が亡くなる、そのことを老人はどこかで予知したから、息子たち二人を呼び出した。息子たちは素直に彼の元へ訪ねてきた。三人で夕食の席を囲んだ。その後、老人は女二人に詩を朗読し、酒を飲んだ。(老人は父親として息子たちに接しながらも、ことあるごとに息子たちの前から姿を消す。そして女二人の傍へ行きたがる。)

そして翌朝、彼は死ぬ。しかし彼が死んだその場面は、死ぬ前の彼が想像した場面でないとは、誰に言えるだろうか。ぐったりとした彼を抱きかかえて泣く二人の息子たちの様子を、飲み過ぎて眠っている彼が夢に見ているのかもしれないし、だったらラストシーンで、前夜に彼の詩の朗読を聞き、彼に何杯かの酒を注いだキム・ミニと先輩が、翌朝のベッドで二人向かい合ったまま、泣きそうな顔をしているのはなぜなのか。もしかして、彼が亡くなったことを(知っているのではなく)想像しているのは、キム・ミニと先輩ではないか。だとしたらこの二人は、同じ想像を、頭に浮かべることが出来るのだろうか、同じ夢を見ることができるのだろうか。

それともやはり、この映画を素直に見ればそうと感じられるように、老人は死んだのだろうか。そう考えるのが自然なのか。しかし彼が死んだことを映画はどのようにあらわすことができるのか、そのことは実は、意外にそう簡単ではないのじゃないだろうか。