政治少年死す

大江健三郎『政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)』を図書館で借りて読んだ。2018年刊行の「大江健三郎全小説3」に収録されたことで、はじめて公式に書籍化されたことをつい最近知った。

「セヴンティーン」も「政治少年死す」も、昔の小説だとは思う。しかし読んでいる間は、強烈な吸引力にぐいぐい引き込まれている。描かれていること自体に驚きはしないのだが、それでもこれだけぎっちりと最後まで煮詰めて書き上げてしまっている、その圧倒的迫力に引き回される。

「忠とは私信があってはならない」この原則からはじまり、煩悩を断ち切ることに成功し、死への恐怖を克服し、神であり太陽であり永遠としての天皇を、明確にとらえることになるところまでが「セヴンティーン」で、そこから自身の「使命」を発見し、「啓示」をえることによって、「確信、行動、自刃」へと至る道まで一直線に進んでいくのが「政治少年死す」で、自己葛藤とか恐怖の克服、たとえば「死の覚悟」を自身のなかに確定付けようとして必死にあがくような、過去に描かれた幾多のすぐれた戦争文学の試みを、六十年代の若者に置きかえて、別の目的へと向けてくりかえそうとしているかのようでもあると思った。

また以下に引用した安西繁との別れの場面は、印象的だし、泣ける場面でもあり、或る意味では、行ってしまう奴と、踏みとどまる奴との違いがここにあらわされているという意味で、決定的に重要な場面でもあるだろう。一個人がもつ政治思想も、つまりはその人の脳内に宿るイメージであり、そのイメージを内面で最期の最期、ぎりぎりまで突き詰めて、もはや自分以外の誰も理解不可能な領域にまで絞り込んだとしても、それでもまだ自分は「独りぽっち」ではないと信じる力、あるいはそのイメージ以外すべてを全拒否してしまえる力、その両者が、微笑みをたたえながら、互いの健闘を祈りつつ別れる場面だ。

やがておれは理解した。安西繁は、かれのかつての戦友、戦歿学生たちのための同盟をつくりたいのだが、かれがおなじ同盟員として許すことのできる人間とは、戦歿学生そのものなのだ。安西繁のように徹底的に一人狼である男は、この東京の荒野にもそれほど多くはいなかったろう、死者のために、死者のみを同盟員として一つの組織をつくりあげようとする青年右翼のファナティック、過激さ、その絶望的性格。安西繁の思想をつきつめてゆけば、かれの同盟員として選びとりたい同志は、戦歿学生でしかないことがわかる、そしてかれがつくる同盟も結局は戦歿学生のためのものでしかないことがわかる。(中略)
 「あなたはいったい日本のどこにあなたの同志がいると思っているんです?どうして、あなた一人でいけないんです?そんなにして一人で動きまわることに満足していられるのに、なぜ同志をさがしもとめるんです?」
 「独りぽっちなら、自殺したほうがいいよ、なあ?」と安西繁はいった。「独りぽっちなら、なぜ愛国が必要だろう、独りぽっちの人間には祖国はない」
 「それじゃ、あなたに祖国はないんだ、それは十五年前にほろびたんだ、タイム・マシンにのって戦歿学生たちの所へかえるほかない」とおれはいった。
 「じゃきみの祖国は未来にあるのか?きみもおれのように独りぽっちだけど、きみの仲間は死んだわけではないから」
 「天皇陛下があるんです。もしそういうべきなら、日本人もない、日本国もない、世界もない、銀河系もない……」
 おれたちは微笑をかわして黙ったままじっとしばらく坐っていた。おれは天皇のことのみを考え、かれは戦歿学生のことのみを考えていたのだろう、おれが安西繁の年代の人間について証言できることは、かれらが死んだ仲間とともに自己をほうむる熱情をもっているということだ。こういうのを戦中派というんだろう、おれはそれを好きだ。
 おれは立ち上がり、おなじく立ち上がった安西繁と握手した。彼はいった、
 「おれは同盟を来年の五月までにはつくりあげたい」
 おれは微笑みを消さないでかれを見まもる時間を五秒だけ長くした、そして別れた。

ちなみに、本作のセヴンティーンである主人公は、おそらく生年が昭和18年頃と思われるから、昭和16年生である僕の亡父と大体同世代と言ってもいいのだろう。安西繁は敗戦時にハイティーンだったのだから昭和一桁、大江健三郎より十歳くらい年上の先輩作家くらいの世代と見ていいだろう。