動くもの

"日本の古本屋"で買った「淀川長治自伝」(中公文庫)が届いたので少しだけ読んだら、幼少時にみた視覚体験の記憶についての話がいきなり印象的で、おーっ…と思った。百年以上前に生まれた人の幼いころの視覚的体験に今の自分が思い当たるものを見出せてしまったのがすごいのではなく、これはおそらく年齢や時代や文明に関係ない、たぶん性格も個性も嗜好性もまだ未成立な段階において、誰もが等しくかならず一度か二度は見て記憶して、そしていつの間にか忘れてしまうような類のことなのだろうか。

思うに、私は「動くもの」に早くから非常に興味を持った。それが幼年男子のように電車や汽車や、のちの、飛行機というようなものではなく、ひとりひそかに見つめているようなものに、とくに興味を持った。
 汽車に乗ると、窓からの風景を眺める以上に向こう側の線路を見るくせ("くせ"に傍点)があった。そのレール(軌道)はまるで飴を伸ばしたその飴がよじり合うがごとく、二本の光る線路がゆれ動きカーブになって他の線と入りまじると、レールは四本の光る紐が枕木の上をすべりまくって重なり合ったかと見るや早いスピードで引きはなれる。これに私は見とれきった。
 これは窓から顔をあげた列車のななめうえの電線の動きにも同じこうふんを覚えたのであった。四本の糸のあやとり遊びのごとく、電線は汽車のスピードにあわせ動きまわるのだった。
 あるいはまた雨の日、私はいつまでも雨が降りそそぐぬかるみを見るくせ("くせ"に傍点)があった。水だまりの上に降りそそぐ雨が忙しげに波紋を描いては消え、波紋を描いては消える、そのたえまない小さな波紋が面白く、降る雨が地面の水だまりに落ちる瞬間に、波紋のさきに見えるか見えぬかの瞬間の早さで、小さな小さな水ばしらが立って、私はその小さな小さな瞬間の水ばしらが軍艦の船上のてっぺんに見え、丸い何重かの波紋はその軍艦が進む波にも見えたのであった。