ディーセント

シンポジウムや講演会などにおける大江健三郎トーク術というのは、けっこうすごい。すごいというのは、いつでも鉄板の笑いネタを、ほとんど三遊亭円楽なみの安定感をもって放つことが出来るという点ですごいのである。「あいまいな日本の私」を読んでいて、そのことを思い出した。

ジョークが、常にきっちりと安定レベルをキープしてるというのが、すなわち教養があるということでありディーセントな人間であるということであろうか。

以下、長男の光氏が生まれたとき、急いで役所に名前を申請しなればならないときのエピソード。これ、前も聞いたことある気がするけど、あらためて硬軟の組み合わせの妙というか按配加減の絶妙さに感嘆した。

他の場所でも話しましたが、フランスに、女性の哲学者で一九〇九年に生まれて、一九四三年に若いまま死んでしまったシモーヌ・ヴェイユという人がいました。
 もともと私は、シモーヌ・ヴェイユが好きなのです。若い時からずっと読んできました。学生の自分に読んだ彼女のエッセイに、こういう一節がありました。いまではイヌイットというのが正しいと流布してきましたけれども、一九四三年のフランスですからまだエスキモーという単語が使われているのですが、エスキモーの神話にこういうことがあると書いてあるのです。
 カラスがいて、永遠の暗黒のなかに暮らしていた。地面を探しては餌を取っていた。なにしろ暗いもので、なかなか餌が捕らえられない、見つからない。それで、光というものがあったらいいな、とカラスがいった。そうすると、その瞬間、光が全世界に満ちた。本当に願うことは叶えられると、こういう物語がエスキモーの神話にあると書いてあって、私はその挿話が好きだったのです。
 
 光が生まれた時、かれには視力がないのではないか、といわれた。それならば、生まれる前につないで、永遠の暗闇のなかにいるようなものだと私は思って、すっかりまいってしまっていたのです。その頃、母親が四国の森から東京に手伝いにきてくれていました。そこへ区役所の知人が電話をくださって、出生登録をしていないのじゃないか、といわれた。新生児が病気だからといって、そのことにかまけて登録しないということは困ると𠮟られました。今日のうちに名前をつけて区役所に来るように、と。傍で聞いていた母親も、私に怒った。
 そこで私は母に、こんなことをいったのです。シモーヌ・ヴェイユという人がフランスにいる。この人が、これこれの神話を紹介している。私はそれが気に入っているので、そこから名前を採ろうと思うけれども、といって、こうしたときにも冗談をいうのが子供の時からのクセなんですが、カラスにするか(笑)、光にするか、といってみた。そうすると、私の母は、断乎として、カラスにしなさい、といったのでした(笑)。それで私は、悄気てしまって、光にする、といいました(笑)。
 
(「新しい光の音楽と深まりについて」52~53頁)

 あと、安部公房の「壁」に出てくる美しい詩の話と、夢の話。

私が敬愛しておりました日本の小説家に、安部公房がいました。この小説家は実に複雑で奇妙な夢を見る人でした。最晩年まで、夢を録音する録音機を枕元に置いておき、手帳も置いて、いま見たばかりの夢を記録する人でもありました。小説のなかでも、それは活かされています。
 安部さんのいちばん初期の傑作といっていい作品に、『壁』という小説があります。その『壁』の語り手は詩人ですが、とらぬ狸という---私は犬ではないかと思いますが---そういう動物を連れて、詩人が宇宙の旅に出ます。そのとき、じつに美しい言葉を発するのです。
 《「真っ暗な宇宙を、一冊の書物が飛んで行くという詩ね。今の僕らが丁度それじゃないか。あの詩は予言だったね。ぼくらは書物だ。そして地球に対立する一つの星なんだよ。見たまえ、ぼくの言うとおりにすれば、早速プランが具体化されるだろう。」》
 このように詩人は語りますが、この言葉も、とらぬ狸という不思議な動物も、すべて若い安部公房が実際に見た夢だということを御本人から聞いたことがありました。
 私も、かれがまだ生きていたとき、安部さんのことを夢に見たことがあります。私は安部さんの前に坐っているのです。しかし、確かに安部公房は目の前にいるけれども、微妙に違う感じがする。そこでなおもよく見るうち、鏡のなかの自分を見るように、右と左の反対になった安部公房を、私は夢に見ていた。
 翌朝、自転車に乗って安部さんに会いに行きました。そのような距離に住んでいたのでした。この夢のことを話しますと、安部さんは夢の専門家ですから、すぐ分析に取りかかったわけなのです(笑)。いろいろなことをいわれた。「きみ、おれを愛してるんじゃないの」とか(笑)。そういうことがひとしきりあって、私はしだいに複雑になる夢の分析の進行にいくらか不安になってきたわけです。
 自分の夢ですし、分析する権利は私にもあると思って、素人としてではありますけれど、自分の解釈を述べてみました。「安部公房のイメージが右と左反対になっている、逆になっている。これは心理学的な夢というより、むしろ言語学的な夢じゃないかと思います」というふうに切り出しましてね。つまり具体的にいえば、安部公房という名と、あべこべという言葉と(笑)。安部さんはムッとしまして、しばらく黙っていました。そして、こういわれた。
 「きみネ、そんなに単純な夢を見るということは編集者に話すな。小説家として根本的な才能を疑われるよ。」私は自分が、安部さんの描く、とらぬ狸という犬になったような情けない気持で、自転車を漕いで帰ったものでした(笑)。

(同38~39頁)