坂本・宇多田

坂本慎太郎の、曲と歌詞を関係づける凄さに惹きつけられっぱなしで、それはいつまでも頭の中に鳴り響き、機会のたびにくりかえし聴くのを止められなくなるのだが、曲と歌詞と云えば、それこそきわめて入念かつ繊細に考え抜いた楽曲ばかりを並べたのが、宇多田ヒカルのあの新作アルバムではなかっただろうかと、そのことをふと思い出した。

宇多田ヒカル「BADモード」はリリース直後に一度聴いたとき、冒頭で感じた好感触はどこへやらという感じで、中盤以降の、この人に固有な重ったるさというか、考えすぎによる風通しの悪さのような印象を感じて、思いのほか自分にハマらなかったのだけど、最近になって、坂本慎太郎によって自分のある領域が覚醒させられた感があったので、あらためて「BADモード」を聴き直してみた。そしたら、それらの楽曲が、とても優れたものだというのは、とてもよくわかった。それでもお気に入りにならないのだとしたら、それは僕個人に帰する固有の原因だろう。

ある意味、坂本慎太郎よりも「BADモード」の宇多田ヒカルの方が、歌詞においてはより過激な冒険を試みているという感じがする。意味を伝えることと、それが音楽であることの、結合しえない矛盾に対して、真正面から取り組み、語句のもっとも細かい単位から組み替えて並べ替えて音楽に乗せて、あたらしい意味内容をあたらしいやり方で伝えようとしているかのようでもある。その「新しい感じ」が、ほんとうにすごいことであると同時に、何か少しだけ、ちょっと距離を取りたくなるような取っつき辛さでもあるのだと思うが。その果敢さに、ついていけないところがあるというか、立派だけど、この感触とかそのままなのか、こういう言葉で行ってしまうのかみたいな、ところどころで、軽い戸惑いをおぼえるのも確かだ。

坂本慎太郎の歌詞には、そういう感じが無い。それは宇多田ヒカルほど鮮明に揺るぎ無い言葉の扱い方ではないからかもしれず、ある種の雰囲気で納得させてしまうところもあるのかもしれず、やり方としては宇多田ヒカルよりもよほど「従来」っぽいのかもしれない。というか、たしかに外観的には異形の様相でありながらも、本質としていわば良質な日本語ロックミュージックの範疇にあるから、その安定感によって支えられているのだ。とはいえそのような良質性に触れることで、これまで自分の力不足で理解できなかったものを再認識するチャンスが与えられることもある。