誰かのツイッターで、坂本慎太郎の曲に「なぜか忌野清志郎を思い出す」という言葉を見かけた気がする。
これは僕も同感なのだ。音楽性も詩の世界もまったく無関係なようでありながら、坂本慎太郎と忌野清志郎は、その描きだす世界において、深いところで響きあっているように感じられる。表面的な相似ではなくて、なぜかふと思い浮かんでしまう感じなのだ。
おそらく坂本慎太郎自身は、忌野清志郎に影響を受けたとも、自分の音楽が忌野清志郎に似たところがあるとも、全く思ってないのではないか(そのへんはあまりよく知らない)。
曲によっては童謡的というか、やや幼児的な世界を描きだしているあたりに理由があるのかとも思ったけど、そういうことでもない気がする。おそらく音楽と言葉(日本語)の混ぜ合わせ方の、感覚的なものが似ているのだと思う。
ちなみにフィッシュマンズの佐藤伸治は(佐藤伸治が影響を受けた音楽として忌野清志郎が挙がってるのかどうかも知らないけど、聴けばそれは感じられるので)、あくまでも表層的に忌野清志郎と相似的なのだと思う。歌手として、パフォーマーとして、忌野清志郎からある種の影響を受けたのではないかと思うのだが、詩で彼が書こうとした世界は、忌野清志郎的なものとはおそらく別だろう。だから、フィッシュマンズを聴いても、坂本慎太郎によって思い起こされるようには、忌野清志郎を思い出しはしない。もちろんそれはそのほうが良いとか悪いとかの話ではない。
坂本慎太郎のアルバムから印象的な部分を、以下適当に引っ張ると
「違法です」での、"たんなる"、"たんなる"、"たんなる"のくりかえし
「まだ平気?」での、"難問だ"、"新聞で"、"寝転んで"、"休憩中"、"飲酒して"、"枕濡らして"、"洗面所"のくりかえし
「君には時間がある」での、"昨日と今日はもう違う"、"そうだ今日会おうよ"、"思ったこと今日言おう"、"向こうから有象無象"、"ああだこうだ言うが"、"そうだもう行こう"、"思ったこと今日言おう"、"怒ってたらどうしよう"、"うーんどうしよう"のくりかえし
あるいはこのような面白さこそ、近年の日本のヒップホップやラップシーンが開拓した成果とも言えるのかもしれないのだが、いずれにしても日本語という厄介な素材を、その独自な選択の技と韻の重なりを仕掛けて、グルグルと回してグルーヴをつくり出していく感じは、やはりその起源に忌野清志郎という存在があると言えるのではないだろうか。